奥屋・大場(2019)は
遅くとも、大宮・村山口登山道では近世以前に、他の登山道では近世前期には各合目に複数の小屋が存在した
としている。また以下の富士参詣曼荼羅図は、石室を考える上で大変重要な史料となっている。
- 富士参詣曼荼羅図に描かれる石室
同報告でも指摘されるように、『松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図』に石室が描かれており、注目される。
石室(松栄寺本) |
この曼荼羅図に描かれる「富士山本宮浅間大社」(静岡県富士宮市)の本殿が浅間造ではないため、制作時期は中世まで遡る可能性があるとされている。
富士山本宮浅間大社(松栄寺本) |
富士曼荼羅図に石室が描かれていることは、大変に重要な事実である。富士山の登拝において石室が一つの象徴的存在であったことを示唆するものである。
- 古文書より
奥屋・大場(2017)は武田家の発給文書等に「中宮之室」「半山室」「室」といった文言があることに注目している。このうちの「半山室」は永禄8年(1565)5月「武田信玄願文写」に「于士峰半山室」とあるそれである。しかし、これらすべてが小屋に類するものであるかどうかの検討は必要である。
例えば登山口が位置する村山に対する掟判物として、天文22年(1553)5月「今川義元判物」がある。この文書の冒頭に「村山室中」という文言があるが、これは小屋ではない。村山の空間を「室」と表現し、その室中において掟が定められたのである。
しかし上記の武田家発給文書や小山田信茂の発給文書、その他文禄4年(1595)の免許状等の文面から、近世以前の時代に中宮に小屋が複数以上存在していたことは確実である。同文献はこれらの史料から
近世以前、五合目下の中宮に社が造営された。その近傍には、神仏を祀るとともに水などを商い登拝者を休息させる中宮小屋が派生、御師や百姓らによって運営された。やがて信仰観の変化や山役銭の徴収制度の変更に伴い、五合目上へ小屋が創設されるようになった
とし、これを吉田口の小屋の成立過程としている。そこで大宮・村山口登山道について考えていきたいが、奥矢・大場(2019)には
天文2年(1533)今川氏輝が辻之坊の諸権利を安堵する朱印状には「中宮」や「御室」、天正19年(1591)頃に井出氏より辻之坊へ宛てた『富士山参銭所之事』には「室四箇所」ほか山内の地名6箇所の存在を確認できる。
とある。辻之坊宛の「富士山参銭所之事」は確認していないが、「中宮」「御室」は共に社であり、小屋とはまた異なるものである。
- 荷田春満と富士信章の富士登山
比較的時代が遡ると考えられる室の記録として、荷田春満『万葉集童子問』(1722年成立か)が挙げられる。荷田春満は「国学の四大人」として名高く、物事に対して毅然と向き合う姿勢はその著作物に現れていると言える。『万葉集童子問』を見ると問答という形で事実を論する形を取っており、時に俗説を強く否定するなどしている。ここに春満の学者の気質を感じるのである。
荷田春満 |
春満は富士大宮司である富士信章の招待を受け、享保7年(1722)6月に富士大宮の地を訪れた。その際に富士登山を行っているのである。その際の記録が断片的に記されており、これは富士山の歴史を考える上で貴重な史料になると言える。また享保7年(1722)という時代背景も重要であり、富士登山の道中を記した記録で18世紀前半以前のものは案外少ないように思えるのである。それが学者による筆という点も重要である。
富士信章の名は春満の各著作の中で「富士中務少輔信章」や「和迩部信章」、また神職名を冠する形で「富士大宮司信章」「富士大宮司」「大宮司」等とあり多様である。以下、『万葉集童子問』の室に関する部分を抜粋する。
予富士大宮司信章に請招れて富士の大宮にしハらく滞留せし時富士山にのほりて見侍しに水海といふものハなし(中略)かの山の半腹に室といふ所ありて室より上ハ草木もなくただあらしのミなれハかの愚詠をも
雲霧ハふもとの物よ室よりハあらしを分るふしの芝山
かく書付て大宮司信章にハみせぬ。
とある。富士山の中腹辺りに室があり、そこから上は草木もなく嵐のみであるとしている。「かの山の半腹に室といふ所ありて」という言い方であるところを見ると、中腹より下には室は無かったのだろうか。また奥屋・大場(2019)には「小屋が3領域の境界や登山道の合流点付近に集中して建てられている」という指摘があったが、まさに今回の場合もその例に漏れないと言える。
記述からは、自然発生的な石室なのか人為的な石室なのかは読み取れない。この時代のいわゆる"合目"の区分が「八」であったのか「十」であったのか分からないが(歴史的には「八」→「十」へと変化していったとされている)、「半腹」というからには少なくとも現在の五合目以上の箇所であったと思われる。
また別史料の草稿に富士登山の際の歌が確認される。詞書を「冨士山にのほりてあまた読侍る歌の中に」とし複数首詠んでいるが、その歌中に「六月のふし」「六月のひかけも寒き雪のふしのね」等とある。これはやはり享保7年(1722)6月に富士登山を行ったことによる。
『万葉集童子問』含め富士登山に関わる記録はいくつか見いだせるものの、この登山道がどの登山道であるかは実は明記されていない。勿論富士大宮は大宮口が位置する地であるので、大宮から登ったことは確かである。普通に考えればその後村山口登山道を用いたと考えられるが、富士大宮司が村山口を避けたというような記録もあったように思えるので、完全な断定は出来ない。春満の関心は違う所にあったようである。今の所、この記録は村山口を用いたものであると考えている。
また以下は、現存未詳であるがそれ以前に採集され記録として残る和歌である。富士登山の際に詠まれたものである。
ふじの山に上る時みなづきのふじの山といふことを句の上下にすゑて
見よやけふなつともいはじつみし雪のきゆる世なくやのこるこの山 信章
見まく思ふなる沢も見えじついまつ(たいまつ)のきえなばうしやのほる芝山 東丸
また以下には「穴子屋」「穴小や」とあり、これは室のことである。何故なら『万葉集童子問』において、富士信章に自作の和歌を紹介する場面にて明確に「室」と表記しているためである。
みな月のふじといふことを第五句にすゑて
世にたぐひ嵐をしのぎ雲をわけ雪路をつたふみな月のふじ
穴子屋より大宮司のもとへ詠みておくり侍る 東丸思ひやれ巌の枕こけ莚のぼりつかれふじのつらさを
返し
思ひやるもいそこ寝られぬ穴小やのあらぬつかれのふじの仮ねを 信章
また別史料の「東丸歌集雑上案」に同様の歌が収録される。
富士の山にのほりし時、いたつくことありけれは、和迩部信章かもとへ申遣しける
思ひやれ岩かね枕こけむしろのほりつかれふじのかりねを
返し 信章
思ひやるもいそねられねあなこやのあらぬなつみのふじのかりねは
とあり、やや異なっている。奥屋・大場(2019)に「『富岳雪譜』によると、石室は宿泊よりむしろ悪天候時の一時避難に利用され」とあるが、この和歌を見るにこのときも同様の用い方をしていると思うのである。
富士大宮滞在時の記録は断片的であるが残り、「古今和歌集箚記」にも「富士大宮司のもとに久しく有し時…」とある。富士大宮では「つつ鳥」なる鳥に関心をもったようである。断片的にではあるが、これらの記録から富士山における当時の風習が読み取れるように思う。
奥屋・大場(2019)は小屋に言及している史料を年代別に示すなどしているが、『万葉集童子問』はその早例の部類に入るといって良いだろう。
- 参考文献
- 奥矢・大場 (2019)「近世富士山における山小屋建築の諸相と山岳景観」『日本建築学会計画系論文集』84巻
- 奥矢・大場 (2017)「富士山の吉田口登山道における山小屋建築の成立過程とその形態」『日本建築学会計画系論文集』82巻
- 奥矢・大場 (2018)「富士山の吉田口登山道における山小屋建築の近代化の様相」『日本建築学会計画系論文集』83巻
- 奥矢・大場 (2018)「富士山の吉田口登山道における山小屋建築の近代化のおこり」『日本建築学会計画系論文集』83巻
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