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2018年8月3日金曜日

今川氏輝による富士宮若の馬廻登用について

今川氏輝は第10代今川氏当主である。次代は今川義元であるが、今川氏輝の政策として「馬廻衆の形成」は良く知られるところである。

小和田哲男『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』には以下のようにある。

氏親・寿桂尼段階に見られず、氏輝が実質的に政治を執るようになってはじめてあらわれた施策のもう1つが馬廻衆の編成である。(中略)この馬廻衆にあたる直属軍は氏親のときにはなかった、それが、天文元年11月27日付の氏輝判物にみえる。(中略)というように、富士宮若に、星山代官職を安堵する代わりに馬廻としての奉行を求めている。宛名の富士宮若というのは、正しくは富士宮若丸のことで、国人領主富士氏当主の子。すなわち、氏輝は、有力武将の子ども世代の若者を親衛隊に組織しようとしていたことが分かる。それは、天文3年7月13日付の興津藤兵衛尉正信宛の氏輝判物に、知行分の安堵をした上で「将又子彌四郎馬廻に相定むる上は、彌奉行を抽んずべき所、仍って件の如し」と記していることからも明らかである

以下が、その判物である。

※「富士宮若殿」の部分は切れています

天文元年(1532年)のことである(「宮若(丸)」は幼名である)。この時の富士氏はどのような状況であったのだろうか。「富士氏の上洛と富士と今川」にあるように、15世紀末の段階で富士氏は今川氏と距離を置いているように見受けられるし、あまり接点はない。それ以前の時代に至ってはむしろ今川氏と対立している。しかし『勝山記』の大永元年(1521年)の記録に「富士勢負玉フ」とあり、武田信虎との戦で富士氏が出陣している事が分かるのであり、このとき今川陣営であったのである。この今川陣営としての行動が一時的なものであったかどうかは、史料数が少なく分からない。しかしこの判物からは今川氏への家臣化が感じ取れるのであり、『勝山記』と合わせて考えると、16世紀前半に富士氏は今川氏と近接するようになったと言える。これは今川氏の領国経営の盤石化に伴う富士氏の方向転換とも捉えられるし、ついに今川氏は富士氏を取り込むことに成功したわけである。

またこの時期の富士上方はどうであっただろうか。天文初期の今川氏は武田氏と対立しており、天文4年には鳥並(富士宮市)の地が武田軍によって焼き払われている。



このような緊張を想定し、軍事的な体制を盤石にしたいという意図もあったであろうか。


大石泰史「今川氏家中の実態―「奉行衆」「側近衆」「年寄中」の検討から」には、以下のようにある。

本史料は、今川氏輝が大宮城(富士宮市)の大宮司富士家の嫡流と思しき宮若に、馬廻の奉行を星山の代官職を、従来通り勤めるよう述べたものである。(中略)今川氏の場合は不明ながらも、北条氏と類似していた可能性はあろう。たった2点の史料しか存在しないので不分明だが、大宮城主の富士氏および横山城主の興津氏の当主に近い人物が任命されているので、城主クラスの近親者に限られているようにも見受けられる。ただ、大名権力が在地側と妥協しながら様々な状況を打開していったことを考慮すると、すべてそうした階層であったとは考えにくい。また富士氏も興津氏も、永享期に第6代将軍足利義教が駿河今川氏の後継者と認めた今川範忠の駿河入国を承認しなかった駿東地域の「国人」で、完全なる今川氏の「譜代」被官というわけではなかった。そのような彼らを内部に取り込み、併せて当主に近任させることで、当主の目が届くところに置かせる=証人=人質としていたと判断される。

としている。まず「今川範忠に対する入国拒否」については「室町幕府と富士氏」にて記している。


この文書は永享6年(1434年)に比定されている文書で、今川貞秋の駿河国への入国を「当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人ら」(または明確に今川範忠支持を示さない者)に伝える文書であり、範忠体制への忠節を求める内容である。「当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人ら」≒「今川範忠の駿河国入国を拒否した者」と言って良いのであるが、確かに興津氏もそうであった。氏輝当主のこの時代に、これら過去の動向がどの程度影響をもったかは分からない。ただやはり氏輝は、完全には今川氏に恭順の意を示さない富士氏のような領主層を取り込みたかったのだと考えられる。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』,ミネルヴァ書房,2004
  2. 大石泰史,「今川氏家中の実態―「奉行衆」「側近衆」「年寄中」の検討から」『戦国期政治史論集 東国編』,2017
  3. 長谷川弘道,「戦国大名今川氏の使僧東泉院について」『戦国史研究』第25号,1993

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