建久4年5月源頼朝公富士ノ巻狩ノ時、神前二流鏑馬ノ式ヲ奉納セラレシニ始マルト言ヒ伝フレドモ詳ナラズ…
とあること以外に根拠となる伝聞はないとされる。富士宮市教育委員会編「富士山本宮浅間大社流鏑馬調査報告書」でも記されているように、この記録でさえも「詳ナラズ」としているので伝承の域は全く出ない。ただ鎌倉時代より時は下るが中世の記録で浅間大社と流鏑馬の関係を示す史料は存在しているので、そちらから考えていきたい。
武田勝頼 |
まず浅間大社と流鏑馬の関係が古文書で明確に確認できるのは、早い例で天正元年(1573)12月17日「武田勝頼朱印状」がある。
同報告書では
ここには「富士大宮鏑流馬銭之事、如旧規淀師之郷可請取」とあり、旧規の通りに鏑流馬領として淀師の郷を与えるというものである。ここに「如旧規」とあるので、浅間大社鏑流馬領は勝頼以前、少なくとも信玄当時からの例に従ったものである。ということは、流鏑馬も天正以前に遡るものである。
としている。この朱印状より少なくとも天正年間以前より流鏑馬が浅間大社にて行われていたということが確認できる。
また流鏑馬神事を考える際、『富士大宮神事帳』(以下『神事帳』)は特に注目される。これは浅間大社の年間祭礼を記す記録であり、浅間大社社人である「鎰取」職の時茂、「四和尚」職の春長、「一和尚」職の清長によって記された記録である。奥付に天正5年(1577)の年号が見えるといい、同年成立と考えられる(参考:他の令制国神社の年中行事史料を一覧化した文献として、鈴木聡子「神社年中行事の研究の現状とその意義について」『國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所年報 第10号』がある)。
ただ『神事帳』には祭礼役の負担者として「葛山殿」「瀬名殿」といった人物も見えるので、天正5年時点の状況を示しているわけではないと考えられる。「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では
このことは、祭礼役の負担者が今川被官であったことを示している。さらに、「富士大宮神事帳」に記載されている祭礼事例が、今川期のものであった可能性を指摘できる
としている。記録から見ると祭礼自体は今川期のものを記していると見て特には差し支えないと考えられる。というのは、瀬名氏と葛山氏は共謀して今川氏を裏切っているのであるが、永禄11年頃にはそれがなされているのであり、天正5年時点で祭礼役として名が見えるのはおかしいためである(参考:「中世の裾野 新史料にみる戦国期の葛山氏」)。
『神事帳』の5月の項には「成手若宮流鏑馬御神事」「山宮流鏑馬天上御神事」「大宮天上御神事」「大宮・山宮参あまつら銭」「あまつら銭」「流鏑馬御座の御酒」「若之宮流鏑馬」「福地流鏑馬」とあるといい、12月にも臨時の流鏑馬神事に関する記述が多く見られる。つまり今川期に流鏑馬神事が行われていたと言って良いのである。
また『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』という記録がある。これは武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に多くの家臣が神馬を奉納し、記録としてまとめられたものである(以下『「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考』を参考にする)。原本は存在せず『甲斐国志』に引用が認められる他、写本が2つ残り、①「賜蘆文庫文書」のものと②永昌院所蔵『兜巖史略』にある「奉納記」(永昌院本とする)がある。また甲斐国志・賜蘆文庫文書と比べると永昌院本の方が家臣の数が多く示されており(92人)、また逆に永昌院本にはなく甲斐国志には名が見える場合もある。
この永昌院本は長篠の戦いで討ち死した武将の名が見当たらず、逆にその家督を継いだ人物の名が連ねているので、同論考では成立が長篠の戦い以後に記されたという仮説を示している。これは疑いないと言え、また氏は武田家臣が神馬奉納を実施した時期を詳細な検討から「天正5年1月から5月の間」までに絞り込んでいる。また同論考では原本では更に家臣数は増えるであろうと推測している。相当数の家臣が人馬を奉納しており、この事実が流鏑馬神事に与えた影響は少なくないと考えられる。馬専用の厩舎もあったであろうし、流鏑馬を行える環境は整っていたと言えるのである。また『富士大宮神事帳』にも奥付に天正5年とあることから、『富士大宮神事帳』および『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』が同時期に意図をもって1つの史料として作成された可能性がある。
また「絹本著色富士曼荼羅図」の図から流鏑馬との関係を見出す論考もある。「富士参詣曼荼羅試論-富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に-」には以下のようにある。
湧玉池の下方に騎乗者のいない白馬が描かれるが、白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう。この集団は流鏑馬神事を行っていた「居住者」の図像である
としている。
白馬と帯同者(『絹本著色富士曼荼羅図』) |
また近世になると『富士本宮年中祭礼之次第』が記されており、「加島五騎」「下方五騎」「上方二騎」等が組織され流鏑馬が行われていたことが分かる。小笠原流については「保阪太一 ,「小笠原長清と小笠原流」『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,2015」に詳しい。
- 参考文献
- 富士宮市教育委員会,『富士山本宮浅間大社流鏑馬調査報告書』,2007
- 合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」」『武田氏研究 第30号』,2004
- 相場明子,「富士山本宮浅間大社の流鏑馬神事-農耕神事と武芸の観点から-」『文化学研究 20号』,2011
- 平山優,「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考『武田氏研究 第45号』,2012
- 佐藤八郎,「駿州大宮神場奉納記」について『武田氏研究 第9号』,1992
- 大高康正,「富士参詣曼荼羅試論--富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に」『山岳修験34号』,2004 後に刊行された『参詣曼荼羅の研究』所収
- 杉嵜典子,「富士周辺の山宮祭祀」『神道宗教 191号』,2003
- 有光友學,「〔講演載録〕中世の裾野 新史料にみる戦国期の葛山氏」,『裾野市史研究』第7巻,1995
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