しかし「吉原」といったとき、やはり「吉原宿」を中心として論じられることが多い。同宿は基本的に近世からのものなので、つまりは近世以降のみが着目されている。しかし吉原そのものの地理的背景、中世における動向をもう少し考えても良いかと思い今回改めて取り上げることとした。そこから吉原宿の成立について考えていきたい。
この図をみても分かるように、宿場町を置く位置はそもそも限られてくる。この一帯から大宮(現在の富士宮市)方面へ拓けるので、やはり中道往還は吉原-大宮を通っていた。次に富士川氾濫原(富士川の氾濫が繰り返された水害地)を見ていくこととする。
これを見ると分かるように、富士川氾濫原はかなりの東側まで及んでいるのが分かる(例えば現在の身延線の位置は旧富士川氾濫原に覆われていた)。つまり町を形成できるのは富士川氾濫原より東側、そして愛鷹山麓より西側という領域となる。まずこれらの地理的要因から、元吉原宿・中吉原宿・新吉原宿一帯に宿場町を構成する合理性を見出すことができる。
その上で高潮影響域を見ていきたい。元吉原宿と推定される箇所の隣接地には「柏原遺跡」が存在する。当該遺跡からは津波または高潮による堆積物が確認されている。この堆積層は3層に分けることができ、数回にわたり大規模な津波・高潮の被害を受けたことが示されている。弥生時代後期から古墳時代前期の堆積層を有しており、古来より津波・高潮に晒されてきたことが判明している。近世の延宝8年(1680)にも高潮が生じ、ついに宿場自体の移転を強いられたというわけである。富士市教育委員会の調査によると、中吉原宿では17世紀中までの遺跡は出土しているがそれ以降の遺物はほとんどないという。これは宿場自体が移転したことを示すとされ、重要な事実である。吉原宿(新)の必然性は①山岳地回避②富士川氾濫原回避③津波・高潮影響域回避から説明でき、まずそれを理解することが重要である。吉原の集約性は、地理的要因が圧倒的に大きかったのである。
※吉原宿に関しては下記を参照
「富士市の島地名と水害そして浅間神社」と「上記」にて水害の説明は既に行っているが、1つ印象的な出来事を挙げたい。上記のように吉原湊周辺は高潮の影響を受けており、各記録から小規模なものを含めると比較的恒常的に発生していたと推測される。その水害の矛先は、その地域の名主でも容赦がなかった。
この文書について「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」では以下のように説明している。
ここで着目したいのは「大風洪水」の事実であり、これは吉原湊における災害と考えられる(※田子浦湊という表記は歴史的には無い、ここでもまた田子浦の用例について考える必要性がある)。
吉原を含む一帯を「富士下方」という。文書から吉原・伝法・青島・高島・厚原・石坂は確実視されている。「富士下方」といった時、大変著名な出来事が想起される。時の今川家当主に今川義忠という人物が居た。しかし今川義忠は突如戦死してしまう。これにより文明8年(1476)に家督争いが発生、龍王丸擁立派(後の氏親)と小鹿範満擁立派とで分かれ、お家騒動に発展した。その際伊勢宗瑞(北条早雲)は甥である龍王丸を助け調停に乗り出し、一旦は範満が龍王丸の後見人という形で家督を代行することとなった。しかし小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を譲ろうとしなかったため、やはりお家騒動となった。その結果小鹿範満は追い詰められ自害、紆余曲折ありながらも龍王丸が今川家の家督を継ぐこととなった(→今川氏親)。この背景には伊勢宗瑞の働きがあったため、功績として伊勢宗瑞(北条早雲)は富士下方十二郷および興国寺城を与えられた。この富士下方十二郷に吉原の地(または吉原の郷)は含まれるのであるが、この記録は些か違和感を覚える。実際、この内容は懐疑的に見られることも多い。池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」には以下のようにある。
とあり、池上氏は下方十二郷が与えられたことを懐疑的に見ている。「戦国北条氏五代」(黒田)によると、富士下方十二郷および興国寺城を与えられたという記録は、『異本小田原記』等によるという。また同文献は以下のように説明する。
黒田氏自身はこの伝承自体を懐疑的にみており、仮に事実なら善徳寺城である可能性を考えている。ただこの流れからも分かるように史実として見るには難しい面が多分にあると言える。このように北条氏と今川氏は良好関係にあったのであるが、義元の代からこれは大きく変貌する。
まず戦国時代の「吉原」は、今川領国と北条領国の境目に近接する位置にある。この境目を探る上で駿甲相三国同盟の動向は重要である。駿甲相三国同盟の際、輿入れは大変華やかで盛大に行われたことが知られている。武田信玄の長女である「黄梅院」が北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地(というよりは中立的な立場)に近い役割があったと考えられる。例えば矢部氏について「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」では以下のようにも説明している。
これは今川領国と北条領国の境目に近接するが故に「領主密着型」になれなかったのではないか、とも考えられるのである。
戦関係の史料として、「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。第二次河東の乱時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 には以下のようにある。
とある。しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』(天文14年)には
とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。
吉原には「吉原城」があったことが史料から判明している。しかし戦国期でも早期に拠点性を失っていたと見られる。「戦国期東国の大名と国衆」(黒田)には以下のようにある。
としている。史料上吉原城の動向が確認できるものは大変少なく、吉原が軍事拠点として存在していなかったことが分かる。これは上記のような不安定な地理的要因によるものではないだろうか。この近辺において水害に関する話題は枚挙に暇がない。吉原城の位置は明確ではないが、天香久山砦や富士塚周辺とされる。やはり沿岸の地であり、当時は砂州・砂丘の影響も過大であったため、やはり恒常的な拠点にはなり得なかったと考えられる。そのためにより北部に善徳寺城があったが、善徳寺城も史料的制約がある。善徳寺は東泉院に隣接していた(『六所家総合調査だより 第11号』を参照)。善徳寺が武田氏の侵攻により永禄12年(1569)11月に焼失していると伝わるので、これは同城の消失と同義である。
今度は視野を「富士郡全体」まで広げてみたい。富士郡各地における諸城の関係性を考える上で、今川氏発給文書上の呼称から探ってみても良いかと思う。富士上方には富士大宮に大宮城(城主:富士信忠)があった。戦国大名が用いた大宮城の別称に「富士城」という呼称がある。この呼称については「戦国大名武田氏の富士大宮支配」に詳しい。
つまり"富士の城"といった際は普通「大宮城」を指すという認識が当時あった、ということになる。今川氏等がこの呼称を複数以上の例で用いていることから、このような普遍的理解があったと言わなければならない。善徳寺城の位置は富士下方にあるが、その善徳寺城は富士城とは呼称されないのである(善徳寺城焼失と伝わる永禄12年11月以前から富士城の表記は確認できる)。他の富士上下方の諸城についてもそうである。このことを考えると、この時吉原城は廃城しており、善徳寺城も戦力上用いられていなかったと考えてもよいかもしれない。富士氏が大宮城の城主であったような時代、富士郡下で要害と言えたものは大宮城くらいであったのだろう。これは吉原に国衆がおらず(吉原の領主は明確には存在していない)、上記のような緩衝地帯的役割から起因すると考えられる。
基本的にはこれが(広義の意味での)吉原宿の成立である。これが矢部氏に伝わっていたこと、また同氏が近世に問屋役・年寄役を勤めるなどしている背景には中世から続く名主的立場があったからに違いない。
先程「広義の意味での」といいましたが、「宿」というのは中世からも存在していたのである。隣接する富士大宮にも「大宮宿」があった。しかし伝馬制にて宿場駅に指定された意義は大きい。吉原宿は中道往還の起点でもある。吉原宿の意義というのは「街道の起点・終点でもあった」という事実からも見出だせるし、むしろこちらこそ無視できない部分である。中世から存在していた「その宿」も前身含め偏移があったと言われている。
元吉原宿の前身である「見附」に関しては一次史料では確認できず、後世の『田子乃古道』に記述が確認できる程度である。その後本来「吉原」でない地域に「吉原宿」が移転され続けた。なので「元吉原」という語が新たに生まれ、史料上確認できるのである。
中世吉原の歴史的な性質(ここでは中世に「吉原」と呼称されていたと推察される地域に限る)として①吉原湊を主とした水運・渡船等による商業活動②今川領国と北条領国の境に近接するという事情③水害による各施設の消失(→吉原宿等)が挙げられる。吉原が国衆・領主の空白地帯であった理由として②③は直接的に関わるであろう。葛山氏の支配領域が駿東郡から飛んで富士下方ではなく富士上方に多い理由(久日・山本・小泉・高原・(柚野)等)も、ここにあると思われる。
- 吉原の位置と地理的背景
この図をみても分かるように、宿場町を置く位置はそもそも限られてくる。この一帯から大宮(現在の富士宮市)方面へ拓けるので、やはり中道往還は吉原-大宮を通っていた。次に富士川氾濫原(富士川の氾濫が繰り返された水害地)を見ていくこととする。
これを見ると分かるように、富士川氾濫原はかなりの東側まで及んでいるのが分かる(例えば現在の身延線の位置は旧富士川氾濫原に覆われていた)。つまり町を形成できるのは富士川氾濫原より東側、そして愛鷹山麓より西側という領域となる。まずこれらの地理的要因から、元吉原宿・中吉原宿・新吉原宿一帯に宿場町を構成する合理性を見出すことができる。
その上で高潮影響域を見ていきたい。元吉原宿と推定される箇所の隣接地には「柏原遺跡」が存在する。当該遺跡からは津波または高潮による堆積物が確認されている。この堆積層は3層に分けることができ、数回にわたり大規模な津波・高潮の被害を受けたことが示されている。弥生時代後期から古墳時代前期の堆積層を有しており、古来より津波・高潮に晒されてきたことが判明している。近世の延宝8年(1680)にも高潮が生じ、ついに宿場自体の移転を強いられたというわけである。富士市教育委員会の調査によると、中吉原宿では17世紀中までの遺跡は出土しているがそれ以降の遺物はほとんどないという。これは宿場自体が移転したことを示すとされ、重要な事実である。吉原宿(新)の必然性は①山岳地回避②富士川氾濫原回避③津波・高潮影響域回避から説明でき、まずそれを理解することが重要である。吉原の集約性は、地理的要因が圧倒的に大きかったのである。
※吉原宿に関しては下記を参照
- 吉原と水害
「富士市の島地名と水害そして浅間神社」と「上記」にて水害の説明は既に行っているが、1つ印象的な出来事を挙げたい。上記のように吉原湊周辺は高潮の影響を受けており、各記録から小規模なものを含めると比較的恒常的に発生していたと推測される。その水害の矛先は、その地域の名主でも容赦がなかった。
この文書について「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」では以下のように説明している。
今川義元から矢部孫三郎に宛てた朱印状には「今度之大風洪水二矢部将監令死去跡職事、依無実子、為親類之間、可令相続之」とあり、先頃の風水害によって矢部将監が死亡し、実子がいなかったためにその跡職が親類である矢部孫三郎に譲られたという経緯がわかる
ここで着目したいのは「大風洪水」の事実であり、これは吉原湊における災害と考えられる(※田子浦湊という表記は歴史的には無い、ここでもまた田子浦の用例について考える必要性がある)。
- 富士下方
吉原を含む一帯を「富士下方」という。文書から吉原・伝法・青島・高島・厚原・石坂は確実視されている。「富士下方」といった時、大変著名な出来事が想起される。時の今川家当主に今川義忠という人物が居た。しかし今川義忠は突如戦死してしまう。これにより文明8年(1476)に家督争いが発生、龍王丸擁立派(後の氏親)と小鹿範満擁立派とで分かれ、お家騒動に発展した。その際伊勢宗瑞(北条早雲)は甥である龍王丸を助け調停に乗り出し、一旦は範満が龍王丸の後見人という形で家督を代行することとなった。しかし小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を譲ろうとしなかったため、やはりお家騒動となった。その結果小鹿範満は追い詰められ自害、紆余曲折ありながらも龍王丸が今川家の家督を継ぐこととなった(→今川氏親)。この背景には伊勢宗瑞の働きがあったため、功績として伊勢宗瑞(北条早雲)は富士下方十二郷および興国寺城を与えられた。この富士下方十二郷に吉原の地(または吉原の郷)は含まれるのであるが、この記録は些か違和感を覚える。実際、この内容は懐疑的に見られることも多い。池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」には以下のようにある。
その功により早雲は富士郡下方十二郷(あるいは下方荘)を宛行われ、高国寺城に入ったというが(『今川記』)、それに関わる文書は全くない。
脚注:興国寺城(沼津市)をさすとみられるが、同城は天文18年に今川義元によって築城されたことを示す史料があるので、早雲の拠った城をどこに比定するかが問題となっている。一般には早雲のいた城を義元が拡大したと考えられているが、小和田哲男「二つあった興国寺城」(『戦国史研究』3号、1982年)は、同城の遺構の西隣になる方形館の可能性を指摘している。ただ、興国寺城は下方十二郷からかなり離れており、善徳(得)寺城の誤りではないかとする説(貝崎鬨雄「善得寺城について」『駿河の今川氏』十集)も魅力的である
とあり、池上氏は下方十二郷が与えられたことを懐疑的に見ている。「戦国北条氏五代」(黒田)によると、富士下方十二郷および興国寺城を与えられたという記録は、『異本小田原記』等によるという。また同文献は以下のように説明する。
この初伝は、宗瑞の今川家中における華々しい台頭を伝えるものであるが、先述の京都における活動と整合性が見られない(注:宗瑞は文明15年(1483)に将軍足利義尚の申次衆となり、後に奉公衆となっている)。さらにその年齢の若さとも相まって多分に伝説性が感じられ、史実としては大いに疑問が残る。(中略)先の所伝に関しては、文明8年の今川氏の内乱について記す「鎌倉大草紙」には、宗瑞の名は登場していない。またそれらの軍記には、長享元年の事件についてはまったく記述されていないので、先の所伝は、この二回にわたる今川氏の内乱を混交して作成されたものと考えられる。ちなみに先の下方荘(注:上でいうところの富士下方十二郷)・興国寺城拝領についても伝承の域は出ず、史料によって確認することはできない。(中略)下方荘の支配拠点としてふさわしいのは、善徳寺城であるから、同荘拝領が事実とすれば、その支配拠点として拝領したのは善徳寺城と考えられる(大塚勲「今川義元-史料による年譜的考察」)。
黒田氏自身はこの伝承自体を懐疑的にみており、仮に事実なら善徳寺城である可能性を考えている。ただこの流れからも分かるように史実として見るには難しい面が多分にあると言える。このように北条氏と今川氏は良好関係にあったのであるが、義元の代からこれは大きく変貌する。
- 今川領国と北条領国の境目に近接する吉原
まず戦国時代の「吉原」は、今川領国と北条領国の境目に近接する位置にある。この境目を探る上で駿甲相三国同盟の動向は重要である。駿甲相三国同盟の際、輿入れは大変華やかで盛大に行われたことが知られている。武田信玄の長女である「黄梅院」が北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地(というよりは中立的な立場)に近い役割があったと考えられる。例えば矢部氏について「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」では以下のようにも説明している。
(同族の矢部左近将監について)彼は今川氏の給人に準じ、軍役を負担するものではあるが、厳密には給人ではないことが指摘できるであろう。(中略)矢部氏は今川氏や葛山氏から職能給としての給恩を受けてはいるが、被官までとはいえず、民間人であったとみなされる。(中略)武田氏の支配下に置かれる以前、矢部氏は武田氏とは敵対関係にあった今川・葛山氏から吉原湊での問屋や渡船などに関する諸権限を安堵され、あるいは後北条氏のもとで軍事活動を左右する船橋の保守・管理や物資調達を求められることを介してそれらの領主と密接な関わりをもっていたにも拘ららず、従来から保証されてきた権限を武田氏の支配下においても保持し、活動を続けていたことが確認できる。(中略)それが可能であった背景には、同氏による商いが領主密着型でなく、渡船をはじめ問屋の経営を基盤にしたいわば地域密着型の商いであったことが指摘できるように思う。
これは今川領国と北条領国の境目に近接するが故に「領主密着型」になれなかったのではないか、とも考えられるのである。
戦関係の史料として、「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。第二次河東の乱時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 には以下のようにある。
天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである
とある。しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』(天文14年)には
此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…
とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。
- 吉原城
吉原には「吉原城」があったことが史料から判明している。しかし戦国期でも早期に拠点性を失っていたと見られる。「戦国期東国の大名と国衆」(黒田)には以下のようにある。
永禄11年12月6日に武田信玄は駿河侵攻のために甲斐府中を出陣したが、これを聞いた北条氏は直ちに今川氏支援のための援軍を派遣し、12日には当主氏政自身が小田原を出陣して伊豆三島に陣を張った。(中略)これらのことから、北条氏は同月中にほぼ駿東郡と富士郡の河東地域をその軍事的勢力下に収めることに成功していたととらえられる。翌12年正月に、北条氏が駿河において確保している軍事拠点として蒲原・興国寺・長久保・吉原の諸城が挙げられているが、おそらくこれらの諸城は、北条氏の援軍派遣の過程で北条氏に確保されていたとみて間違いないであろう。(中略)このように、北条氏は援軍の派遣過程で葛山要害・長久保城・興国寺城・吉原城・蒲原城をその管轄下に収めたとみられるが、この点に関して、例えば『北条五代記』巻六には、この時期に北条氏が武田氏との抗争にあたって軍事的拠点として取り立てていたものとして「蒲原・高国寺(興国寺)三枚橋(沼津)・戸倉(徳倉)・志師浜(獅子浜)・泉頭・長久保七つの城」を挙げている。(中略)これに対して他の葛山要害・長久保城・吉原城のうち、葛山要害・吉原城については以後における抗争過程においてもその名はほとんど初見されない。このことは、両所がかなりはやい段階から既に重要な軍事拠点としての機能を与えられなかったことを示すものであろう。
としている。史料上吉原城の動向が確認できるものは大変少なく、吉原が軍事拠点として存在していなかったことが分かる。これは上記のような不安定な地理的要因によるものではないだろうか。この近辺において水害に関する話題は枚挙に暇がない。吉原城の位置は明確ではないが、天香久山砦や富士塚周辺とされる。やはり沿岸の地であり、当時は砂州・砂丘の影響も過大であったため、やはり恒常的な拠点にはなり得なかったと考えられる。そのためにより北部に善徳寺城があったが、善徳寺城も史料的制約がある。善徳寺は東泉院に隣接していた(『六所家総合調査だより 第11号』を参照)。善徳寺が武田氏の侵攻により永禄12年(1569)11月に焼失していると伝わるので、これは同城の消失と同義である。
今度は視野を「富士郡全体」まで広げてみたい。富士郡各地における諸城の関係性を考える上で、今川氏発給文書上の呼称から探ってみても良いかと思う。富士上方には富士大宮に大宮城(城主:富士信忠)があった。戦国大名が用いた大宮城の別称に「富士城」という呼称がある。この呼称については「戦国大名武田氏の富士大宮支配」に詳しい。
城郭についても、武田氏、後北条氏の文書によく見られる「大宮城」の他に「富士城」「富士屋敷」「富士之要害」などの呼称が用いられている。この場合武田氏は「大宮城」を一貫して用いている。後北条氏の場合籠城時の富士信忠に対して「大宮城」を用いているが、その他は遠方に送った書状が中心であるためか「大宮」を「富士」に変えて使用している。また今川氏真の場合は、使用例がわずか三例と少ないが、両方を用いている。
つまり"富士の城"といった際は普通「大宮城」を指すという認識が当時あった、ということになる。今川氏等がこの呼称を複数以上の例で用いていることから、このような普遍的理解があったと言わなければならない。善徳寺城の位置は富士下方にあるが、その善徳寺城は富士城とは呼称されないのである(善徳寺城焼失と伝わる永禄12年11月以前から富士城の表記は確認できる)。他の富士上下方の諸城についてもそうである。このことを考えると、この時吉原城は廃城しており、善徳寺城も戦力上用いられていなかったと考えてもよいかもしれない。富士氏が大宮城の城主であったような時代、富士郡下で要害と言えたものは大宮城くらいであったのだろう。これは吉原に国衆がおらず(吉原の領主は明確には存在していない)、上記のような緩衝地帯的役割から起因すると考えられる。
- 吉原宿の成立
基本的にはこれが(広義の意味での)吉原宿の成立である。これが矢部氏に伝わっていたこと、また同氏が近世に問屋役・年寄役を勤めるなどしている背景には中世から続く名主的立場があったからに違いない。
先程「広義の意味での」といいましたが、「宿」というのは中世からも存在していたのである。隣接する富士大宮にも「大宮宿」があった。しかし伝馬制にて宿場駅に指定された意義は大きい。吉原宿は中道往還の起点でもある。吉原宿の意義というのは「街道の起点・終点でもあった」という事実からも見出だせるし、むしろこちらこそ無視できない部分である。中世から存在していた「その宿」も前身含め偏移があったと言われている。
宿 | 成立年 |
---|---|
見附 | 吉原宿の前身 |
元吉原宿 | 元祖吉原宿、上の伝馬朱印状はこの箇所に対するもの |
中吉原宿 | 寛永年間に高潮被害により移転 ※年度は諸説あるが寛永16年(1630)-寛永19年(1633)の間 |
新吉原宿 | 延宝8年(1680)の水害により天和2年(1682)に移転 |
元吉原宿の前身である「見附」に関しては一次史料では確認できず、後世の『田子乃古道』に記述が確認できる程度である。その後本来「吉原」でない地域に「吉原宿」が移転され続けた。なので「元吉原」という語が新たに生まれ、史料上確認できるのである。
貝原益軒『壬申紀行』に
廿四日 吉原をいづ。此町はちかき世三たびたちはかる故に、もと吉原、中吉原とてあり。十年あまり前、津波のたかくあふれあがりて民家をひたせる事あり
とあるので、「元吉原」「中吉原」という言葉は当時存在していたようである。ここでいう「吉原をいづ」の「吉原」が、上の表でいうところの「新吉原」ということになる。
中世吉原の歴史的な性質(ここでは中世に「吉原」と呼称されていたと推察される地域に限る)として①吉原湊を主とした水運・渡船等による商業活動②今川領国と北条領国の境に近接するという事情③水害による各施設の消失(→吉原宿等)が挙げられる。吉原が国衆・領主の空白地帯であった理由として②③は直接的に関わるであろう。葛山氏の支配領域が駿東郡から飛んで富士下方ではなく富士上方に多い理由(久日・山本・小泉・高原・(柚野)等)も、ここにあると思われる。
- 参考文献
- 黒田基樹,『戦国期東国の大名と国衆』,岩田書院,2001
- 黒田基樹,『戦国北条氏五代』,戎光祥出版,2012
- 久保田昌希,『戦国大名今川氏と領国支配』,吉川弘文館,2005
- 綿貫友子,「戦国期商人の一形態 駿河矢部氏に関する覚書」『中世の杜』(東北大学文学部国史研究室中世史研究会編),1997
- 富士市立博物館,『六所家総合調査だより 第11号』,2012
- 藤村翔,「富士郡家関連遺跡群の成立と展開 富士市東平遺跡とその周辺」『静岡県考古学研究 45』,2014
- 静岡県考古学会,『考古学からみた静岡の自然災害と復興』,2013
- 東島誠,『公共圏の歴史的創造-江湖の思想へ-』,東京大学出版会,2000
- 阿部浩一,「戦国期東国の問屋と水陸交通」『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館 ,2001
- 荒川辰美,「田子の古道」についての一考察『駿河 第67号』,2013
- 前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡第20号』,1992
- 『戦国遺文後北条氏編 補遺編』,東京堂出版,2000
- 大石泰史,「今川領国の宿と流通 : 宿と流通を語る「上」と「下」」『馬の博物館研究紀要 第18号』,2012
- 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号,1991
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