富士山麓の地域が分からない方へ

2015年6月22日月曜日

富士山における合目や階層の概念について

富士山には「何合」という概念が存在する。しかしこの「合目」を学術的観点で説明する文献は意外にも限られている。

この説明をする上で、まず富士山に「階層」という概念が存在していたということを知る必要性があります。「合」は「階層」を示しているわけであり、当然階層の概念を示す史料を探る必要性があるわけです

『富士の歴史』では以下のように説明している。

室町時代末期の作なる富士浅間縁起に「富士山形蓮華合似、絶頂八葉、層々第八層到」と見ゆ。(中略)更に村山浅間社の萑修験大鏡坊から、嘉永年間に寺社奉行所に呈出せる「富士表口南面路次社堂有來之次第絵図」を按ずるに、砂振を第一層とし、順次二層・三層・四層・五層・六層・七層・八層・九層と記して、頂上に達する登山道を描き、始めて之を十分して居る。(中略)果して然らば、古くは何合といはずして何層と称したのかも知れぬ。(中略)

と説明した上で、あくまで「○合」の初見や由来の可能性として以下を示している。

  1. 『隔掻録』(1814)に「富士山を測る場合、その形から山形穀を盛るのに似ているので、一里を一合というようになった」という旨の記載がある。もちろん『隔掻録』の影響をそのまま受けた『甲斐国誌』も同様である。
  2. 『甲斐叢記』に「是より峰頂に至るまで、里数を称ずして合勺を以て数へ、十合に至る」とある。基本的に『隔掻録』と同様の解釈が示される。
  3. 芙蓉亭蟻乗の富士日記(「駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート」にて一部掲載)は胎生十月に準ずるとしている。「木花木花開耶姫は富士山の御神にして、御山も女躰にかたどるなり。麓より頂上迄一合・二合・三合目と次第に登り、絶頂迄十里有り、是を胎生十月に准ず」とある。
  4. 山頂のことをお鉢というが、仏寺の供米も御鉢料といい、そこから飯米になぞらい五勺一合というように「合」を用いるようになった
  5. 洪水のとき水量を図るのに「合」を用いるように、富士山にも用いるようになった
しかしこれらは推測の域を全く出ない。また十合の理由として、富士山縁起(村山三坊地西坊)は「六道(仏教用語)に声聞・縁覚・菩薩・仏を加えた数」としているという(「富士山とかぐや姫伝説」の「竹取翁説話を含む富士山縁起」の3のもの)。これも十合の由来の1つに数えられる。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」では以下のように説明している。

しかし近世以前の資料には、登山道を十合に区分する説を見出すことはできない。むしろ中世までは八層に区分する概念が通用していた形跡がある。鎌倉時代の書写である『浅間大菩薩縁起』では八層の地質の様相を具体的に記したうえに「八層はいわゆる頂上なり」と説明しており、当時の村山修験では八層説が用いられてたことが判明する。(中略)こうした資料を踏まえれば、中世において富士山の登山道が八層に区分されていたことは確実である

「富士山における階層の概念」は中世まで遡ることができ、ここは非常に重要な点であると言える。また他山での場合(他山では階層の概念があったのか、共通項はあるのか)と比較する必要性がある。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 『富士の歴史』(再販:名著出版,1973),260-264

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