富士山麓の地域が分からない方へ

2024年11月10日日曜日

大宮・村山口登山道を巡る問題行為およびガイド問題について考える

昨今、富士山を巡る様々な問題がニュースとなっている。最近も以下のようなものがあった。

誰が?なぜ? 富士山登山道に無数の矢印 富士宮口6~8合目の岩などに塗料で 登山ガイド「許せない」(静岡新聞DIGITAL  2024年11月9日)

富士山の富士宮ルートの6~8合目にかけ、登山道沿いの岩などにペンキのような塗料で無数の矢印が描かれていることが8日、地元の登山ガイドへの取材で分かった。一部は山小屋の石積みにも描かれていた。同日までに静岡県などに報告したという。富士山は国立公園に指定されていて、自然公園法などに抵触する可能性がある。(中略)男性は、6合目以上が通行止めになった9月10日以降から10月下旬にかけ、何者かが複数回にわたって矢印を付けたと推察。「しつこく描かれていてひどい状況。何が目的かは不明だが、富士山の景観を汚す行為で気分が悪い。許せない」と憤った。  富士山では2017年にも須走ルートで無数の矢印が見つかり、国や県などが除去作業に追われた。

そして「有識者」および一般のコメントでは、この行為に対して否定的見解および非難するコメントが寄せられた。




実は富士山におけるこの種の迷惑行為であるが、従来から問題となってきたという事実がある。

幻の「富士山・村山古道」が人気 5年前、ガイド本が出版され話題に(中日新聞 2011年1月13日)
 行政困り顔「本物確証なく危険」
幻の富士山大宮・村山口登山道(通称・村山古道)とされるルートが、登山者の間でひそかな人気を呼んでいる。明治末に廃絶した古道を再発見した、と主張するガイド本が5年前に出版されたのを契機に登山熱に火が付いた。しかし、国や富士宮市教育委員会は、同書が紹介するルートが本物の古道である確証はなく、登山者の安全も確保できていないと懸念している。
昨年10月24日未明、富士宮市の村山浅間神社を出発。富士山富士宮口新6合目までの標高差約2000メートルを12時間半かけて踏破した。たどったのはガイド本「富士山村山古道を歩く」(風濤社)が村山古道だと主張するルート。富士山信仰を研究する登山家で、同書の著者畠堀操八さん(67)=神奈川県藤沢市=が率いる登山者グループに同行した。畠堀さんは、約8年前から同市村山の住民有志と協力して古道を調査。古老の記憶などを頼りにルートを特定し、倒木や雑草を切り払って整備した。2006年に、「幻の古道の在りかを突き止めた」としてガイド本を出版、インターネット上などで話題になった。地元では、古道を活用した“村おこし”への期待も高い。
一方で、行政側は登山者の増加に頭を痛めている。市教委はガイド本のルートについて「学術的な調査に基づいていない。本物だとの誤解が広がっては困る」と懐疑的。県埋蔵文化財調査研究所が08年度に実施した調査も、札打ち場など古道沿いにあった施設の遺構16カ所を確認したが、施設同士を結ぶ登山道までは確定しなかった。地元住民の有志はガイド本のルート沿い約20カ所に案内板を設置したが、数年前に静岡森林管理署に撤去を求められ、やむなく応じた。有志からは「登山者の遭難を防ぐための案内板をなぜ」と不満が渦巻く。管理署は「ガイド本のルートは獣道との違いも不明確な道もあり危険。利用を促すわけにはいかない」と説明する。(抜粋)

このような迷惑行為が行われきたという過去がある(「記事B」とする)。勿論、これが昨今のニュースであったのであれば、コメントも非難するものが多くを占めたことであろう。そもそも村山口登山道の学術的調査の嚆矢は、『富士山村山口登山道調査報告書』(1993年)である。



この時代には既に、村山口登山道における施設跡の平坦地は調査されている。したがって

明治末に廃絶した古道を再発見した

という言い分そのものが、まずあり得ない。各媒体でもそのように流布しているようであり、この浅ましい程の執念は理解しがたい。1993年の調査において施設跡の平坦地はほぼすべて把握されており、追加で発見されたものは『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』(静岡県富士山世界遺産センター)において「SX8」と呼称される地点のみである。現在は更に詳細な分析がなされ、学術的なルートが公開されている。

記事Bは「倒木や雑草を切り払って整備した」と美化した表現となっているが、「無許可での荒らし行為」と大きくは違わないものである。富士山は国有林の箇所だけではない。財産区もあり、これらは公有林である。これらの承諾を受け行われた行為ではないのは明白であり、独善的な行為であったことは当人たちも否定できないだろう。

こういう無神経な人々は底がない。例えば富士山麓の財産区では以下のような事象もあった。

勝手に山菜採取 男女23人検挙 静岡 (静岡新聞デジタル 2010年6月2日)
地元住民が管理する財産区から山菜を無断で採取したとして、富士宮署は5月13〜31日までに、窃盗の疑いで28〜75歳の山梨県などに住む男女23人を検挙した。同署の調べでは、男女らの多くは高齢者で、富士宮市根原の立ち入りが禁止された山中に侵入し、ワラビやウド、フキといった山菜を採取したとされる。同署によると、この場所は有刺鉄線で囲まれた数万平方メートルの土地。男女ら は鉄線を乗り越えて侵入したとみられる。近くの大学が行う生態系調査への協力と不法投棄防止のため、「山菜採り禁止」「立ち入り禁止」と 書いた看板を立て、注意を促していた。この場所は「不審者が勝手に入って山菜を採っていく」との苦情が毎年寄せられていたため、同署が警戒を強めていた。

大学側はデータを取り、論文なども書くこともある。例えば植物の発育調査を経時的に行ったり、場合によっては数カ年必要なものもあるだろう。しかし"意図せぬ人工的な介入"があったということから、そのデータはもうそのまま使えない。つまり数年の研究も無神経な人々によって一瞬にして台無しになってしまったりするのである。

実は村山口登山道でもそのような危機があった。上の「有志」を名乗るような組織の行動を見てみると、シャベルなどで土を深く掘り起こすなどしていることが確認できる。しかしこれを登山道で無作為にやっていたら、埋蔵物を散逸してしまう危険性がある。

例えば中宮八幡堂の跡地からは「17C」や「17~18C」、つまり17世紀に遡ることができる埋蔵物が発掘調査により発掘されている。これらは施設跡であることを示す重要な要素となる。しかし有志を名乗る組織が勝手に掘り起こしてしまったら、建物跡の基礎跡等も分からなくなってしまうのである。そうすれば村山口登山道の形跡は失われることになる。

であるから、有志らの行動はむしろ村山口登山道の発見を阻害する行動であったと言うこともできる。「数年の研究」どころか「歴史そのもの」を失うところだったのである。

御室大日堂跡

村山口登山道の保存を唱えていた著名な人物に故・小島鳥水氏が居る。氏は聡明な人物であり、とても見識が深かった。(小島1927)「不盡の高根」には以下のようにある。

私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ(中略)今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦ふするに恰好かっこうな題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師おしも数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀かなしいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐ふところの深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。(中略)
 氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙なぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
 我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。(以下略)

このように述べられ、後の時代に村山口登山道の道程が失われることを危惧されていた。そして研究者らが研究する段階では事跡等も不明になってしまっているとも限らない、と警鐘を鳴らしていた。

今、小島氏に伝えられることがあるとしたら、「(上のような)危機もありましたが、研究者により大宮・村山口登山道の全容は明らかとなり保存の観点にも注意が払われている」ということだろうか。このように学術的な観点から大宮・村山口登山道の全容は明らかとなっているが、記事Bの面々らはそれをあえて伏せているきらいもある。独自の見解もあるようであるが、そこに学術性がなければ、それは想像でしかないのではないだろうか。

小島氏は村山口登山道に対する強い思いがあったようであり、後の(小島1936)「すたれ行く富士の古道」(村山口のために)でも再び村山口に言及している。氏は論考の冒頭で、私が最も好きな聖護院門跡道興の短歌を載せ、そこから本論に入る。そして若山牧水の和歌から上の論考(不盡の高根)を回顧され

村山古道の跡に、假に歌碑として建てても、少しも不似合ひなことは無いと思はれる

と振り返り、ここで「村山古道」という表現を用いている。また以下に内容を一部掲載する。

それが可なりに古い時代(後述)から、明治末期までは、村山口といふ名でも知られてゐた。然るに大宮口の新道(現今のは新々道)が開けて、村山口は全く廃滅に帰し、今では富士登山者の中でも、村山といふ名を口にする人も無い、或は全く知らない人すらある。(中略)

村山口は、私蔵の古い一枚摺(年代不明)の地図に依ると「表宗本寺京都聖護院宮内村山興法寺富士別当三ヶ坊あり」と見えてゐるし、又「富士山表口真面之図」と題する大判一枚摺に依ると、富士山別当村山興法寺三坊蔵板とある。(中略)

この地形図式錦絵で見ると(中略)ここに上述の三坊が控えてゐる。それから発心門を潜り、安生山を左に見て、靏芝、亀芝(草を使った跡が、靏亀の形を成してゐる)を右に、中宮八幡社にかかり、女人堂に至る。これから上は、女人禁制である。(中略)そして村山口の頂上は、銀明水と東賽ノ河原の間に「村山拝所」としてしるされてある。一合目から九合目には、今日のように何合何という小さい区切れがなくて、合が単位になってゐる。

(中略)序でを以て言ふ、「馬返し」なる名は、富士にも日光にもあって、昔の登山者には、懐かしい名詞だが、これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう。(中略)武田久吉博士が、未だ一介の学生たりし青年時代に、私のところへ寄せられた富士便りのハガキをたまたま見つけ出したから、左に援用する。村山口経由の登山である。日付けは明治三十八年八月五日で、日本山岳会成立以前のことである。

ここで「これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう」とあるのは、氏の先見の明であると言える。また武田久吉氏の村山口を経た登山も記され、貴重な記録となっている(ここでは略す)。また以下のようにある。

(中略)大體の路筋を言へば、大宮浅間神社から大宮新田を通過し、賽の河原から粟倉に到り、村山に達するので、村山の標高は須走より低く、御殿場より聊か高いぐらゐのところ…

ここも極めて正確で、かつ細かい記述である。恐らく昔の富士宮市の人々は「賽の河原」(舞々木町)が何処かは知っていたことであろう。しかし現在は知るものも少ないし、ここを経由したことも忘れられている。

(中略)村山から札打、天照教、細紺野を経て、八幡堂下に至るまで、所謂裾野帯であるが、八幡堂下より、草木はおのずと深山的のものになり、一合目までには、蘚苔地衣類多く「オオクボシダ」など、樅の大樹に密生している。(中略)然るに、この千年の歴史ある村山口が、明治末期から俄かに衰微し、大正昭和となって全く廢滅したのは、他の登山口の勃興したためでなく、大宮口自らが、もつと距離の短かい、比較的安楽な道を、新たに開拓しためであった。

(中略)数多い富士登山道の中で、捨てられて顧みられない村山の古道を拾い上げた所以は、第一にそういった、古くて美くしく、故にまた懐かしい憶い出話を、語ることを、私が好むからである。第二に、私あたりの旧に属する登山者が、今のうちに書き残して置かなければ、古道は、その物語までも失はなければならなくなると気遣はれるからである。第三に、村山は、古道と言っても、明治末期までは、ともかくも伝統と生命を保ってゐた。衰亡史の第一頁を切ってからは、至って新しい。それだけに、資料も猶ほ豊富に残されてゐる筈だから、私の、継ぎ合せて拵へたやうな貧しい本文が捨石となって、富士の研究家、又は大宮附近の古老の口からなりと、村山興亡史の發表を促すことになれば幸ひである。第四に富士の新道として、山中口、精進口、上井出口、人穴口などが、続々開拓されて、中には実際、未だ幾何も利用されてないものもあるらしい。富士登山に対するそれだけの熱が山麓の人々にあるならば、歴史あり、伝説あり、自然美に富める村山口を、回復、保存、維持して行くべきではなからうか。村山口の道路が、或は長く、或は幾分か峻しく、時間もかかるといふのは、此際、むしろ不幸なる幸福であらねばならぬ。(以下略)

大宮新道に注力していったのは、やはり自然の成り行きであろう。そして村山口登山道が廃れていったのも、やむを得ないことであると思われる。しかしそこにそのままの状態で残ってさえすれば、後の時代に辿ることもできよう。

しかし学術的な保証なく人工的な手が加われば、そうはいかない。その危険性があったのである。また小島氏の述べるような「後の富士登山史を研究する者」「富士の研究家」によって村山口登山道のルートが明らかとなった昨今、これが村山口の登山者にも十分に認識されていないのは唯一危惧される点である。これが作為的なものであったのなら、小島氏の思惑とも異なるものであろう。また「ガイド問題」については「富士宮市の博物館構想を通史的性格から考える、文化・芸術の拠り所としての表現」にて言及しているので御参照頂きたく思う。

  • 参考文献
  1. 小島烏水(1927)「不盡の高根」『名家の旅』、朝日新聞社、185-249
  2. 小島烏水(1936)「すたれ行く富士の古道」『山』、梓書房、4-13
  3. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』

2024年11月3日日曜日

富士宮市の博物館構想を通史的性格から考える、文化・芸術の拠り所としての表現

博物館構想を考える上で「富士宮市の通史的性格」からも考えていく必要性があると感じ、また「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想検討委員会」の資料については未だ言及していなかったため、これらも併せて「富士宮市の通史的性格と博物館構想」をテーマに解説していきたいと思う。

富士宮市の歴史を俯瞰して見てみると、非常に歴史トピックに恵まれた地域であるということが分かる。例えば「日本三大仇討ち」にも数えられる「曽我兄弟の敵討ち」は富士宮市で起こったことであるし、それに付随して富士宮市を舞台とする「能」「幸若舞」「浄瑠璃」作品も成立した。また富士宮市の地名を冠する史料『富士野往来』は江戸時代の教科書としても用いられた。あらゆる「表現」の中に組み込まれたのである。

(小井土2022;p.480)は『曽我物語』を説明する中で「霊峰富士を背景に、物語が大団円を迎えているということこそが、この物語が持つ何よりのポテンシャルと言えるのではないだろうか」と述べているが、やはり富士山麓という土壌は大きく関係するように思う。

単一の事象で言えば「富士大宮楽市令」は全国で用いられる高校日本史の参考書にも記されており、古文書学では法制史学の分野で特に用いられる。ちなみに高校日本史の参考書には富士宮市の事柄として他に「富士金山」が記される。

また絵画化例も極めて多く、『曽我物語図屏風』を始め「武者絵」も富士宮市を描いたものが多い。他、「富士参詣曼荼羅図」もある。あらゆる分野において輝いたものがある。

富士宮市という地域は時代を問わず、常に人々に意識されてきた地域なのである。ここまでの規模感を有する地域は、日本でも指折りかと思う。例えば曽我物を演じる時、その担い手は富士野の地を強く意識したことだろう。それは観る側も同様である。人穴探索を題材とした武者絵も多いが、この場合は奇怪な事が起こる地として描かれていたので、人々はそれらを見て恐ろしいイメージを膨らませていたに違いない。実際『驢鞍橋』や『文武ニ道万石通』にはそれが反映されている。『富士野往来』で学習する子どもたちは、強く富士野の地を想像したことだろう。従って「富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響」を人々に説くことが極めて重要なのである。ところで「第3回(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想検討委員会」にて以下のような意見があった。



この指摘は極めて重要であると思う。そしてその答えは上で記したように

"富士宮市の事象が歴史の中にもたらした影響"を人々に説く

としておきたい。私は展示の方法は「①外(影響を長く及ぼしたもの)と②内(内政)」の2つがあると考えており、そのうちの①が上である。

しかしこの恵まれた環境下において、それらが富士宮市民の中で殆ど浸透していないとすれば、それは穏やかではない。その場合その要因の一端、いや多くは行政側にあるのではないだろうか。行政側は世の中の様々な事象に対する感度も低いと思われる。

例えば文化庁選定「歴史の道百選」の「みのぶ道(93番)」に富士宮市が含まれていないのはおかしいと気付かなければならない。何故なら、身延道は富士宮市を通っているのだから。駿州往還は富士宮市内房を通過しており、これは紛れもなく「みのぶ道」である。また富士吉田口登山道(37番)は選定されているのに富士宮市の登山道が含まれていない理由も考えなければならない。要は、ロビー活動が全くないからである(これまで)。普通に考えて、そんなところが人を呼び込める博物館など作れないだろう。博物館や企画を認知させる手法は、結局のところロビー活動に類するものなのだから。

富士宮市の歴史のフラッグシップ的存在として「富士氏」が挙げられる。(前田1992;p.83)に「従来、史料の量に比べて研究成果が乏しかった武田氏と大宮との関係を自分なりに探ってみた」とあるように、富士氏の動向を示す史料は新出史料を含めそれなりにある。前田氏のそれは、研究を大きく進展させたと言えるだろう。

史料の残存量もそうであるが、富士氏の歴史上での存在感を考慮すると、あまりにも知名度が不足しているのではないだろうか。富士氏は室町幕府の在国御家人で、富士城の城主であったのだから。正直「富士宮市はこれまで何をしていたのだろうか?」と言われても仕方がない。

「国立歴史民俗博物館」の2018年の企画展「日本の中世文書―機能と形と国際比較―」にて「沙弥道朝書状」という古文書が展示された。その文書は富士忠時が受給者であるが、不思議なことに解説では富士氏には全く触れられていない。また『浅間大社遺跡 山宮浅間神社遺跡』(2009)という、静岡県埋蔵文化財センターによる報告書がある。報告書内に「浅間大社年表」というものがあるが、「富士大宮司氏」や「富士大宮司内分裂」といった意味がよくわからない用語・文章が連なっている。

しかし富士大宮司というのはその時ただ1人だけであって、しかも富士氏の当主が名乗る神職名であるので、「富士大宮司内分裂」とか「富士大宮司氏」などという概念は存在し得ない。富士大宮司は富士氏の一側面にしか過ぎないのである。『富士大宮神事帳』という史料があるが、この史料1つだけ見ても、「富士兵部少輔」(富士大宮司)「富士常陸守」「富士又七郎」「富士左衛門」の名が見え、多層的である。

これらを見ると富士氏に関連する論及は、単一レベルでは優れたものがあったとしても、全体としては恵まれたものではなかったことが分かる。県内の組織の報告書であっても、そのような状況であったのだから。そしてその期間は永きに渡るものであった。その背景は一体何だろうか。富士宮市のHPや刊行物を見ると、やはり「富士氏=富士大宮司」という捉え方をしてきた節がある。本当に近年まで、富士宮市の歴史研究の成熟度は相当低いところにあったと言う他ない。

逆に近年(ここ10年)は富士宮市からの目を見張る成果・展開があり、従来と対比すると一層際立ってくるように思う。それは内部構造が変化したからに他ならない。今すべきことは、学芸員の方々が研究活動等に集中できる環境を整えることではないだろうか。

また今年は富士宮市の歴史に関する報告が多く世に放たれた年であり、注視していた人であれば確実に感知できたことであろう。これほどまでに重なるのは珍しいことである。『戦国武将列伝 6』(6月)には富士信忠の解説が収められ、『室町幕府と東海の守護』(8月)にも富士氏に関する論考が認められ、特筆すべきは9月発刊の『領主層の共生と競合』(2019年のセミナーを原型とする、『静岡県地域史研究』にも一部所収)であり、この一冊は極めて重要な意味を持つ。説明会に出席した一般の人々の中でこういう動向を感知できた人がどれくらい居るのか、興味深いところである。博物館構想の説明会であるのに全員が感知できない層であったのなら、それはただ単に富士宮市の人材不足と言えるのであり、それは富士宮市にとっての不幸と言えるのではないだろうか

これまでの研究の蓄積不足は否めないところであり、これは博物館構想にとって致命的な枷となるだろう。それを一気に飛び越えるエネルギーは、相当なものとなる。それを現在就いている学芸員の方々に一直線に強いるのは不憫な話と言えるのではないだろうか。したがって、以下の意見を支持したいと考える(第2回会議録・第3回会議録より)。





また博物館建設には一般市民側の意欲も必要である。換言すれば「富士宮市民のアイデンティティが必須」と言える。その形成のための取り組みが、全くなされて来なかった。

「富士宮市の領主は"富士さん"でした」とか「富士宮市はあの「楽市」が行われた場所です」といったことを何故言ってこなかったのだろうか?他の地方自治体はもっとアピールしているではないですか。楽市が「富士宮市の歴史年表」の類に従来まで記載されていなかったのは、その証左であろう。また以前例を挙げたが、TV等で頻繁に「近年村山口登山道が発見された!」と明確に誤った情報が流布されている。その度、私はこう思う。

本来こういう時に富士宮市民から「20世紀には調査も実施され、以前より認識されてきたものであり、TVは間違っている」というような声が聞かれるべきなのではないか

悲しいかな、村山の人々ですら分かっていないようである。また「富士宮市の自然(第五次富士宮市域自然調査研究報告書)」に以下のような箇所がある。


多くは言いませんが、富士宮市の公式資料でこれとは、なんと情けないことか。実は何故か歴史史料で多く確認される「村山口」の文言をどうしても用いたくないという勢力が居る。また学術用語としても「大宮・村山口登山道」があり、その点からも不可解である。

そして村山口登山道のガイドも数多く居るようであるが、根本的なことを理解していない。おそらく多くの人は「古の登山道を登ってみたい、でも地理的な知見がなく難しい」という純粋な思いから登山のガイド依頼をするのであろう。そしてその登山道とは「大宮・村山口登山道」のことなのである。しかしその気持ちを全く汲み取らず、何故か「村山道」を案内するガイドも居るようである。もっと酷い場合は、更に下から誘導しているようである。そもそもガイドは「大宮・村山口登山道」と「村山道」の違いも分かっていないように見受けられる。ちなみに「村山道」に関しては史料上用いられた記録は殆ど無く、成立も近世である。

するとどうであろう。一念発起し、おそらく人生一度切りという思いから登拝したのにも関わらず、後で全く異なる道を歩かされていたことに気づくということになる。これは依頼主への裏切り行為ではないだろうか。また「村山道」を望んでいたのに「大宮・村山口登山道」を案内してしまっていたら、それはそれで危険である。難易度が桁違いであるからだ。つまりこの用語を理解していない人というのは、依頼人を危険に晒す可能性を十二分に持ち合わせているのである。ガイドとして失格であることは言うまでもない。これらの事例を見ても、一般の歴史認識は相当に弱い。

しかし学術的な視点で真っ当に動いている組織は、この点をしっかりと把握して動いてくれていることを私は知っている。そして私は、それを本当に誇らしく思う。1993年には村山口登山道に関するまとまった報告書を出していることも知っている。もっと自分たちから成果を目に見える形で表してもよいのではないだろうか

勿論基本的にはガイドの不勉強が問題ではあるのだが、やはり行政側からも「これが①大宮・村山口登山道、これが②村山道、①と②は違います!」とハッキリとした分かりやすい提示をするべきなのかもしれない。そしてまとまった形の学術的な調査は1993年のものを嚆矢として、その後も重ねて調査が行われ、概ね全容が明らかとなったという文言を付け加えておくべきだろう。そしてこれは静岡県・富士宮市・富士市の共同で行うべきだろう。TVおよびガイドの不勉強の尻拭いでしかないのは分かるが、考えなければならない。歴史学は、こういう啓蒙活動もセットであるべきなのかもしれない。

つまるところ、単純に認知が絶望的に足りないのである。それは市HPのコンテンツからも見て取れる。富士宮市HPの歴史コンテンツを確認してみたところ、以下のページのみであった。あとは企画展の紹介ページのみである。



正直、これらのページはあまり意味を持つものではない。専門性の高いコンテンツは、市HPには不必要なのである。それは学術の場でなされていれば良い。そうではなくて、富士宮市の代表的な歴史トピック・名称を題したページを10程作成するだけで良いのである。本当に簡単な話なのであるが、それが出来ていない。なので検索に一切引っかからないのである。

「富士宮市の領主富士氏について」「井出正次について」「富士郡の要害大宮城について」等と題したページを作って、簡単な解説を加えれば良いだけの話なのである。それが何十年と出来ない。何処でもやっていることなので、本当に不思議である。ところで、以下のような意見があった(第3回会議録)。


これはタブレットに富士宮市HP(歴史のページ)へリンクするタブ等を設ければいいだけの話なのです。従って、そのページをまず作成する必要性がある。それを氏は述べるべきなのである。

基本的に今求められるのは「富士宮市の代表的トピックのページ作成+それを流布する力(ロビー活動)」である。これまでの蓄積不足は甚だしい。仮にしっかりと取り組みがあれば、富士宮市に現在「楽市通り」(道の通称)があったと思うし、富士宮市の「市の木」はシュロであったに違いない。普通に考えれば、これらを制定すべきなのである。また富士宮駅前には曽我兄弟の銅像が建立されていたかもしれない。少なくとも「ライオン像」にはならないだろう。

「富士海苔」も保護のための機運が高まって「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)に登録される段階にまで漕ぎ着けていたかもしれない。そして何よりも、博物館建設の機運は今よりは高いものとなっていただろう。つまり博物館を建設できない要因の1つは、何を隠そう「(策定している)内側の姿勢」にあったのである。

10年とか20年といった年月をかけてゆっくりと浸透させていくべきアプローチが殆ど確認されない。体感的には少なく見積もっても20年、厳しい言い方をすれば30年くらい遅れている感じがする。もちろん市民側の閾値の問題もあるだろうが、何でもかんでも市民のせいにしてはいけない。

ただ富士宮市民のせいである部分も過分にある。「富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」等でつらつらと富士宮市民の気質等について言及しているのであるが、要はこの中の登場人物は世間知らずなのである。説明会というのは、実質"行動力のある世間知らず"が場を乱しているだけの場になっているのである。そこにファクトは無い。

そもそも大人たちこそ子供を見習うべきではないだろうか。子供たちの方がよっぽど生産性がある活動をしている。例えば「全国高校生歴史フォーラム」では富岳館高校の学生が「富士氏による富士宮地域の支配とその性質の変化~富士山本宮浅間大社大宮司・富士氏の盛衰に着目して~」という研究を発表している。

これを成立させるためには「①調査→②理解→③形にする→④発表」という過程が必要である。多くの大人は出来ないことである。まず①の段階で殆どの大人が出来ないであろう。



また「静岡学園高等学校歴史研究部」も富士氏に多く言及した論考を出している。


富士宮市民なのに永きにわたり領主であり続けた富士氏すら知らないのは、この際良いとする。しかし大人として、この種の活動に支障がない体制をなるべく整えてあげようという気概くらいもったらどうだろうか?

むしろこの種の活動を促進させたいとは思わないのだろうか?説明会に行って「廃校!廃校!」と理由のわからないことを述べるエネルギーを、もっと違う形で活用した方がよっぽど生産性があるだろう。

そもそもこれまで文化課等で費やした費用なんぞとっくにペイできているのである。「富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」で記したように世界文化遺産「富士山」の構成資産は研究の有無によって左右されている。研究によって普遍的価値が認められ、それによって選定された構成資産に観光客が訪れているのである。普遍的価値はイメージで決定されるのではない。

そして構成資産であるという付加価値が、観光客を更に呼び込んでいるのである。その経済効果は計り知れない。むしろ博物館がありもう少し研究が深化していたら、もう1つくらい市内に構成資産はあったかもしれない。私がみる所、富士宮市内はあと1つは望めたところだろう。

そもそも「お金」という視点でこの種の話をすることがナンセンスなように思えるのであるが、説明会の質問では「お金」というワードが頻出しているのも事実である。その上で貴方がたが好きな土俵で論じたとしても、正直全くお話にならないというのが実情であろう。

ここで少し角度を変えてみよう。大発見とされる「銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏(1482年)」は富士山頂の三島ヶ岳で発見され、現在富士山本宮浅間大社に奉納されているが、発見の経緯が面白い。遠藤秀男『富士宮歴史散歩』には以下のようにある。

横浜の人が突然私のところを尋ねて来て「山頂でこんな物を拾ったが見て欲しい」という。見ると円盤型の青さびた掛仏である。(中略)そして左右に文字が刻まれていて、「文明十四年六月」「総州菅生庄木佐良津郷」とあり、(中略)千葉の人によって富士山頂に奉納されたものであることが判明した。(中略)発見のきっかけは、次のようだという。拙著『富士山の謎』で富士山中から古銭が多く発見されている話を読み、登山の折りに注意して歩き、(中略)砂中に埋まっているのが見つかったという。そこで私の所へ持ち込んだという次第であるが…

つまり「書物」の存在が無ければ見つかっていなかった可能性もある。このように世の中のものに感化され、実際に行動を起こし、何らかの成果物が生まれるという過程がある。博物館の企画展なども大きく人々に影響を与えるだろう。もっと大きく言えば、有史以来の偉大な発明も、全くの土台無しで成されたものは無い。こういう個々の情熱の積み重ねが世の中を動かしてきた。こういうものが最終的には次の活動に繋がっているのは間違いない。博物館はここで言うところの「土台」だろう。

しかし個々の経歴など事細かく追跡できようもないから、定量化はできない。例えば10億の経済効果があったとして、「〇〇さんの活動が〇〇円寄与した」などと言うことは物理的に不可能なのである。つまり説明会の質問者というのは、定量化ができないことを良いことに、好き放題言っているだけでしか無いのである

私は博物館構想を考えていく中で、多角的に思考を巡らせてみた。例えば富士市立博物館建設時の過程も調べてみたし、上にあるように富士宮市民の気質にまで考えを及ばせてみた。やりすぎなくらい多角的に考えたように思う。

これまで様々な思考を巡らせ、そして途方もなく多くの史料・資料にあったように思う。そして導き出した博物館の姿が、以下である。

項目
名称「富士博物館」が基本と考えるが、少なくとも「郷土史博物館」でなければ良いという印象もある。名称の競合を防ぐため「Mt.FUJI ミュージアム」も良いと考える。
外観・内装『築山庭造伝』に図示される富士大宮司邸(茶庭・大書院)を模したものが望ましい。空間からデザインする必要性がある。建物自体が展示物であってほしい。博物館の「緑」を担う場所にもなる。
展示内容【外】(影響を及ぼしたもの)
富士宮市を舞台とする芸能を紹介する(「曽我物(能・幸若舞等)」)
富士宮市を舞台に含める物語・教科書を紹介する(『曽我物語』『富士野往来』『富士の人穴草子』等)
富士宮市を舞台とした絵画化例を紹介する(「曽我物語図屏風」「武者絵」「富士曼荼羅図」)
関東の富士家(江戸幕府旗本であった富士家)を紹介する
【内】(内政)
富士宮市の領主「富士氏」を通史で紹介する
富士宮市の在地勢力「井出氏」を紹介する
大宮城について解説する
富士野を巡る事象について解説する
富士海苔について解説する
富士川との関わりについて説明する(「富士山木引」等)

上を成立させるには、まだまだ研究が足りない。例えば人穴は恐ろしい地であると広く認識され、それは『驢鞍橋』や『文武ニ道万石通』等からも垣間見える。そして仁田忠常の人穴探索を題材とした武者絵も多い。これらの系譜を追った論考も未だにない。勿論発端は『吾妻鏡』であるが、経時的に整理していく必要性がある。人穴は相当に知名度が高かったと考えられる。

そもそも「曽我物」を富士宮市の視点から論じたものがほぼ皆無であるように思う。何故だろうか。例えば能〈伏木曽我〉は完全な富士宮市が舞台の能作品である。そしてこの作品を復曲する活動があり、先日無事に上演された。こういう活動を富士宮市民が全く感知していないというのは、なんとなく寂しいものがある。こういうものを感知できる人間が、博物館についてどう考えるのかということに私は関心がある。



〈伏木曽我〉は(竹本2021;p.36)が「作風が他の曽我物と全く異なり、表現も洗練されている」と評しているように、完成度が高い。典型的な修羅能であるのにも関わらず、そこには「怨」がない。

『曽我物語』を一から解説するのは難しいが、〈伏木曽我〉に対応する『曽我物語』の箇所を引き合いに出して互いに解説することは十分に可能であり、そして分かりやすい。博物館は表現方法に一番拘るべきである。

富士宮市の地域内の事象だけに囚われるのではなく、富士宮市を舞台とした芸能・作品にまで考えが及んだ博物館であれば、より人を巻き込むことができるのではないだろうかと考える。まずはロビー活動の徹底的な強化が求められる。

  • 参考文献
  1. 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、地方史静岡刊行会
  2. 竹本幹夫(2021)「『曽我物語』と曽我物の能」『能と狂言 19』、能楽学会
  3. 小井土守敏(2022)『曽我物語 流布本』、武蔵野書院