2013年7月9日火曜日

『撰集抄』に見える富士山

『撰集抄』は鎌倉時代に成立したとされる説話集である。その『撰集抄』巻5「富士山隠士對覚尊読歌事」に富士山に関する記述がみられる。

中比、駿河国、いづくの者とゆくゑもしらぬ僧のつたなげなる侍り。富士の山の奥にけしかる庵を結びて、やすみするふじどとはし侍りけるなんめり。食物は魚鳥をも嫌わず、着物はこもわらをいはす身にまとひて、そこはかとなきそぞろ打ち言いて、物狂の如し。

とあり、覚尊なる人物が富士山の山奥で庵を結んで生活していたと記している。

そして興味深いことに村山浅間神社に伝わる正嘉3年(1259)の仏像の銘に「願心聖人・覚尊・□日・仏師□□」とあり、覚尊の名が見えるという事実がある。



正嘉3年(1259)の仏像の銘にあることから、覚尊なる人物が願主として存在したことは間違いなく、『撰集抄』に見える「覚尊」と同一人物ではないかという見方がある(これについては懐疑的見方も多い)。

富士山史において興味深いのは、このような推測が後に発見される史料において裏付けが進んでいくケースが多いことである。「末代」も後に発見された経典にて裏付けがなされた他、「富士山縁起」といったものも多くを裏付ける材料となった。

仏像の銘は富士山史の追求において非常に有意なものであると思う。

2013年7月7日日曜日

富士山本宮浅間大社並びに富士大宮司の朱印高

富士山本宮浅間大社の神職として中心的存在であった富士氏、そしてその中でも筆頭であった富士大宮司は強大な力を保持していた。

特に江戸時代においては、富士氏は専らその伝統的権威によって支えられていた。富士氏は戦国期には城主までをも務める存在であったが、今川氏衰退と共に武人としての側面からは基本的には退いていた。つまり、以後神官としての立場で権力を保つ必要性があったのである。そして実際富士大宮司は神官という身でありつつも強大な力を保持し、それは以下の記録からも察することができる。『古事類苑』より。

三國に秀し富士の御山、拜せん事をとて、能登の七尾の俳士笑鴉といへる老人、夏比行脚なして、不二の根かたにいたる(中略)富士の大宮司は、千四百石の御朱印たり、此神主一度も登山せず、たヾ〳〵麓より拜し奉るとなん…

富士大宮司は1400石の御朱印(朱印高)がある、としている。そして富士山自体には登ることがないとも記している。普通に考えると、1400石という朱印高はかなり大きな規模である。例えば武田家(高家)は500石であったと言われているので、これでは江戸時代の大名と比較する程の規模と言える。

文禄2年(1593年)の「富士大宮浅間領渡帳」には各神職の朱印高が記されており、末には「合千七十石」とある。一方『古事類苑』で参考にしたと思われる記録は江戸時代のものであるが、江戸時代より前の16世紀には既に社領が1000石を超えていたことが判明する。

しかし1400石という規模の朱印高を富士大宮司が個人で持つということはさすがに無かった。これは神職である富士氏(富士大宮司・公文・案主)の領地分、または別当分などを合計した規模を指していると見たほうが良い。江戸時代において朱印という形で所領を安堵されたのは富士氏及び別当に限られており、このような推測ができる(『浅間神社の歴史』P413)。

富士大宮司の社領は寛永18年の朱印状で明らかである(『浅間神社の歴史』P413)。また公文・案主の社領については、寛文の朱印状と元和3年の社領目録を照らし合わせ算出されている(『浅間神社の歴史』P416)。それによると、以下のようになる(『浅間神社の歴史』P368)。


神職社領
富士大宮司867石9斗1升
公文80石6斗2升
案主44石6斗2升
別当136石2斗1升
1129石3斗6升

おそらく1400石という記述は、これらの富士氏または別当宛の朱印状の合計やその他領地分を含めたものであろう。それが1000石を超えるという意味である。

しかし富士大宮司が約900もの朱印高を保持していたことに変わりはなく、富士大宮司が如何に大きな力を保持していたのかが分かる。富士山の山頂を管理または支配していたのは富士氏及び別当である(参考:徳川忠長の富士山における政策と富士氏)。そしてその中でも富士大宮司は特に発言力を有していたため、言い方を変えれば富士山頂は富士大宮司が管理する場所であった。富士山を総合的に管理する立場が富士大宮司であったのである。例えば政治的意図があったとされるオールコック(初代英国公使)の富士登山の際は富士大宮司が監視し、また寺社奉行へ書簡を出しているが、それも当然なのである(参考:幕末のオールコックによる富士登山)。

富士山を総合的に管理していたその背景には、富士大宮司自身の朱印高の高さ(=権力)があったと言える。