2013年3月25日月曜日

戦国期葛山氏の富士山関連の政策

戦国時代における葛山氏は「葛山氏堯-氏広-氏元」と続き、今川氏の家臣であったとされる。富士山東南の御厨地方周辺は、この葛山氏が支配するところであった。このことから、葛山氏における富士山関連の政策は注目されるところである。

  • 葛山氏尭の政策
葛山氏尭は15世紀から16世紀初頭にて活躍した人物である。氏尭は二岡神社保護の政策を行なっている。その保護の方法として、道者関などを活用する手法が確認できる。大永五年(1525)4月に御厨を通る道者が二岡神社を通るように命じている。これは道者が神社に立ち寄ることを促すことで、散銭などの資金的側面での補助と考えられる。治める上での1つの政策と考えられる。また大永7年(1527)7月には二岡神社に道者関を寄進している。これは、道者関での諸役分などを前面的に安堵するということでもあり、明確な神社保護の政策である。氏堯は北麓の小山田氏などと同様、道者関を活用する政策を打ち出していたのである。

ちなみに二岡浅間(と思われる、要確認)に繰り返し土地を寄進した氏族として大森氏がおり、応永21年(1421年)には大森憲頼が御殿場の二岡権現と小山町の二岡神社に土地を寄進しているという。15世紀中盤は、この土地は大森氏が支配していたと考えられている。また後述の「佐野郷」も大森氏が支配に関与していた(池上裕子,「公演 今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994)。大森氏がいつまで影響力を保持していたかは不明であるが、時代が下る例では『小田原衆所領役帳』にもみられる(「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」)。

  • 葛山氏元の政策
氏元は元は今川氏家臣であったが、今川氏衰退に伴い武田氏に帰属している。それは武田氏の駿河侵攻の際、大宮城(富士郡大宮)を穴山信君(武田氏家臣)と共に攻めていることで明確である(永禄12年2月)。その攻撃を富士信忠(大宮城城主、富士氏当主)は退いている。この事実から、葛山氏独自の政策がみられるのは駿河侵攻以前が主であるので、その時期の政策例を挙げたい。また氏元の代で葛山氏は滅亡していると伝わる。

またこの大宮城が位置する大宮で1つ確認しなければならないことがあり、以下の「今川氏真判物」により葛山一族の「葛山頼秀」が富士大宮司領の代官職を改易させられている事実がある(画像1)。改易されてはいるが、それまで代官職を受け持っていたという裏付けでもある。葛山氏はそれ以前にも、富士上方の 「山本 ・久日 ・小泉」を吉野氏に安堵するなどしている。つまり葛山氏の手は富士郡まで伸びていたということになる。



画像1

この改易の事実は、武田氏への帰属と関係していると考えるべきであろう。

文書1

葛山氏元は天文20年(1551)12月に、浅間神社(須山浅間神社か)の神主に禰宜分の懸銭を安堵する判物を出している。また天文21年(1552)正月に佐野郷(現・裾野市)の浅間神社修繕を目的とする勧進の許可を出している。

この「佐野郷の浅間社」についてであるが、『裾野市史第8巻通史編1』では裾野市域に2例の浅間社があったとし、その一方であるとしている。


所在地神社名初見典拠・参考事項、()の数字は『市史』の資料番号
大畑「あしたかの御まつり」社あるいはその前身か
茶畑か佐野郷浅間社(506)(551)神主柏宮内丞、禰宜助三郎
須山浅間社(411)
『裾野市史第8巻通史編1』P289より引用

文書2、後半掲載せず

天文21年12月には佐野郷の浅間神社の神領を安堵している。弘治3年(1557)8月には岡宮浅間神社の法度を定める判物を出している(同旨の判物が永禄4年にもあり)。永禄元年(1558)8月には佐野郷の浅間神社に修造のための勧進の許可を与えている。

文書3

永禄6年(1563)3月には須走口の過所に関する朱印状を出し(文書1)、永禄7年(1564)5月には須走の道者関にて毎度のように滞りなく処理するよう命じている(文書2)。永禄8年(1565)4月にも須走の道者関にて納めさせるよう命じている(文書3)。同年5月には、富士山を警固するために遣わした者の兵糧について命じている(文書4)。

文書4

須走口を多角的に管理している点で、特筆すべき動向であろう。

  • まとめ

これら判物などをみていくと、葛山氏が浅間神社を厚く保護していたことに間違いはない。特に須走口・道者関関連の施策の部分には注目である。葛山氏は道者関を管理し、道者の取締りを行い、須走口の管理を行なっていた。これは富士山麓の須走口の登拝関連のほとんどを全体として取り締まっていたと考えて良い。ここに葛山氏の統治性を感じ取ることができる。村山口は単独の氏族なりが取り仕切る形態はなかったため今川氏管理の下であったと考えられるが、須走口は葛山氏管理の下で継続されてきたと言える。後に武田氏により須走浅間神社に内院散銭の寄進が行われたのは(1577年)、ここが葛山氏管理の地であったために、葛山氏帰属後速やかに保護的政策が施すことができたためでであろう。

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  2. 『裾野市史第8巻通史編1』P289-290

2013年3月21日木曜日

富士山中にて発掘された懸仏について

以前「静岡県の富士山の神仏像」という記事を書きましたが(将来的に「山梨県の富士山の神仏像」も作成予定)、今回は「懸仏」についてです。懸仏で発見されているものは多々あるが、各登山道や年代から4つの懸仏に絞り紹介したいと思います(すべて山中から発見されたものである)。

  • 銅造 大日如来二尊像 懸仏(須走口六合目で発見、1384年)



古い時代の須走口を史料上にて詳しく示す記録は、実は限られている。その中で1911年に発見されたこの懸仏は、須走口の歴史を示してくれる。この懸仏は、登山道の考察をする際などはほぼ間違いなく名が出てくるほど知られたものである。この懸仏が注目される理由として、登山道中にて発見された奉納物としては最古例にあたり(一・二合目を除く)、至徳元年(1384年)という年代に既に須走口が開かれていたことを間接的に示すからである。多くで、上記のような考え方がなされている。六合目ということから登山道の中盤にあたり、須走口を用いた登拝の際に奉納されたことに疑いはないように思える。「どの登山道が古くから開かれていたのか」については、実は全く判明していない。村山口、須走口、船津口、吉田口それぞれに可能性がある。古記録では村山口に分があるとされることも多いが(事実村山が古くから開かれていたことを示す史料は多い)、その中においてもこの懸仏の存在は無視できないのである。


  • 銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏(山頂三島ヶ岳付近で発見、1482年)



山頂三島ヶ岳で発見され、富士山本宮浅間大社に奉納されている。この懸仏については、『富士宮歴史散歩』(本)が参考になる。この著者が発見時に関わっていたため、詳しい記述がみられるのである。本には以下のようにある。

横浜の人が突然私のところを尋ねて来て「山頂でこんな物を拾ったが見て欲しい」という。見ると円盤型の青さびた掛仏である。(中略)そして左右に文字が刻まれていて、「文明十四年六月」「総州菅生庄木佐良津郷」とあり、(中略)千葉の人によって富士山頂に奉納されたものであることが判明した。(中略)発見のきっかけは、次のようだという。拙著『富士山の謎』で富士山中から古銭が多く発見されている話を読み、登山の折りに注意して歩き、(中略)砂中に埋まっているのが見つかったという。そこで私の所へ持ち込んだという次第であるが…

つまり筆者(氏)の本を読んでいた登山者が注意しながら歩いていたところ、なんと実際に見つかってしまったということなのである。「本願源春」とあり、願主が「源春」なる人物であることが分かる。



  • 銅造 不動明王像 懸仏(吉田口烏帽子岩付近で発見、1482年)



こちらの懸仏にも「本願源春」とあり、願主は「銅造 虚空蔵菩薩像 懸仏」と同様である。そのため、年代が一致しているのである。また双方の銘文に「八体内」とあり、「本願源春」の懸仏として他に6つの懸仏が存在していることも示している。1つは山頂にあり1つは吉田口烏帽子岩付近にあることから、それぞれを散らばって奉納されたと推測される。今も富士山中に存在している可能性が高い(もちろん山中から既に発掘されている可能性もある)。また双方で虚空蔵菩薩像・不動明王像と異なることから、それぞれの懸仏に意味があったと考えられる。この奉納例は独特であり、興味深い。


  • 銅造 薬師如来像 懸仏(大宮口登山道七合五勺で発見、15世紀頃)



薬師如来像の上部に墨で書かれた痕跡があるというが、かすれて判読ができないという。作風などから15世紀頃とされている(『富士の信仰遺跡 富士吉田市歴史民俗博物館企画展図録』による)。ただ最新の技術でなら判別できそうな気もするので、その時を期待したい。15世紀頃というのはあまりにも広すぎる。


  • まとめ

これからも富士山中から奉納物が発見される可能性はまだまだある。「富士山の自然と社会」には以下のようにある。

また、傾斜は西側にやや急で、東側によりゆるい。これは噴出した火山灰の多くが、この地域に卓越する西南西の強い偏西風のため東側に運ばれるからである。東側でよく知られる'砂走り'などは西側では見られない

つまり、偏西風で火山灰が東に飛び東側で蓄積し、西側と東側で傾斜の差異を生み出すまでになっているということである。たしかに御殿場口には砂走りの区間があるが、富士宮口には無い。であったとしたら、その箇所は表に出にくいのであって、やはりこれから発掘される可能性は多いにあるのである。もちろん、最古例が覆される可能性もある。奉納物という存在は登山道の歴史を間接的に示し、多くの可能性を示すこととなる。奉納物の発見はこれからも多いに期待したい。また1482年の懸仏群がそれぞれに散らばっているとすると、他の登山道が開かれていた可能性を示唆するということになる。既に登山ルートの選択肢は多岐に渡っていたかもしれない。また6つの懸仏をどのようにして奉納したのかということもある。「八体」というのは仏教の「八葉」を意味するものであり、このとき既に峰を八葉とみなす概念が存在していたことを示している。「銅造 大日如来二尊像 懸仏」の例も、深く分析する必要がある。

  • 参考文献
  1. 富士吉田市歴史民俗博物館編,『富士の信仰遺跡 富士吉田市歴史民俗博物館企画展図録』P14-27,2002年
  2. 富士吉田市歴史民俗博物館,『図録 富士の神仏-吉田口登山道の彫像-』P58-59,2008年
  3. 遠藤秀男,『富士宮歴史散歩』,緑星社出版部,1980年
  4. 国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所,『富士山の自然と社会』3-4頁,2002

2013年3月5日火曜日

幕末のオールコックによる富士登山

オールコックは初代英国公使である。当時の日本はまだ外国人を排他的に扱う風潮が強く、初代駐日総領事であるオールコックも例外ではなかった。その中で1860年にオールコックは徳川家茂に謁見し、日本において様々な処務を行った。そのひとつが「富士登山」である。

しかしこのオールコックの富士登山について、史料的に示す材料は意外にも限られている。例えばオールコックは富士登山の過程で村山の大鏡坊に宿泊しているが(後述)、当地村山においても資料は限られている。「村山浅間神社調査報告書」(富士宮市教育委員会、2005)では以下のように説明されている。

こうした傾向が根強くある中で突如発生したのが、万延元年(1860)7月英国大使オールコックが富士登山をしたことであった。(中略)このようなオールコックの富士登山についてこの地に存在する文書あるいは伝承等々について何か書こうとしても、この事にかかわる資料といえば、万延2年酉正月「富士村山別当等願書」が『静岡県史料第二輯駿州古文書』に所収されているだけで、他には見ることができない。即ち前者は村山の社領である神成・木切山・粟倉、三村の村方三役から、村山月番地西坊御役人中に提出されたもので、人馬継立等にかかった費用の不足分の拠出についての願いである。後者は富士山村山浅間別当である地西坊・辻之坊及び大鏡坊から寺社奉行に提出された願書で、外国人の富士登山にかかわる人馬継立について助郷制度のような対策を願うものであった。

このように村山の資料も限られている。『嘉永明治年間録』に、オールコックの登山を記録した寺社奉行への届書が記録されており、オールコックの富士登山については比較的詳しい部類となる。またこの記録は『古事類苑』などにも掲載されている。外国人による公的な富士登山は、歴史的な転換であったのである。

萬延元年8月廿二日、英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書
比日(延元年八月二十二日)寺社奉行松平伯耆守へ富士大宮司届書写
英国人不士山登山 去る七月十八日出立 廿一日大宮泊の先触に候処 廿二日大雨にて廿四曰昼立 大宮小休 村山泊に相成り 廿五日快晴し 不士山六合目へ泊り 廿六日快晴頂上いたし 其日不二山の木戸迄下り 廿七日同処昼休に相成り 滞無登山相済申侯間比段取敢不一御届申上侯 以上
                不二山大宮不士本宮浅間大宮司不二亦八郎


富士山体に関することであり、なおかつ寺社奉行への届書ということである程度予測できるかもしれないが、この届書を出したのは富士氏の「富士重本」(富士亦八郎重本)である。富士重本の大宮司としての面が垣間見える。また、これも監視の一環と見て良い。富士氏によるものなので、「大宮」の記録とも言える。

1860年と言えば完全に幕末であり、江戸時代における富士大宮司による正式な文書としては、かなり末期の例だと思う。「英人富士山ヲ測量スルニ就キ」とあるが、測量以外にも政治的思惑があった(政治的思惑についてはここでは記さない)。またオールコックは『大君の都』という自伝を記しており、富士登山の記録も記している。それによると、以下ような日程であった。

1860年7月23日、オールコックは吉原(現・富士市)に到着していた。このとき大宮より神職の者が来て浅間大社に泊まるよう促され、オールコックは24日には大宮へ移動し、浅間大社に宿泊した。25日には村山まで移動し、村山の村山三坊(大鏡坊)に宿泊した

つまりオールコックは他の道者と同様、大宮と村山へ泊まるというパターンを踏襲している。つまり「大宮・村山口登山道」を用いて登山を行ったのである。そして26日には富士山頂に到着したようである。また下山以降は以下のような日程であった。

26日に山頂へ着いた一行はおよそ3時間で下山し、再び大宮に戻った。大宮に泊まった後、7月28日の朝出発した。その後吉原-沼津-三島-韮山と移動した。

富士宮口新五合目には何故か「オールコック登山記念碑」があるが、この登山口から登山を行ったわけではないので注意が必要である(こういうことはやめたほうが良いと思う)。

以上、オールコックの富士登山の日程について簡単に記し、また大宮・村山口登山道が所在する大宮・村山双方による史料を簡単に提示してみた。

2013年3月3日日曜日

様々な富士の「富」

「富士(山)」という表記は平安時代には既に確認されており、つまり現在我々が自然に表記する「富士山」というものは、平安時代まで遡ることができるということになる。

そこで考えることに、「富士」の「富」は一体どのようなものがあるかということである。一度こういうページを設けて、徐々に実例を掲載していきたいと思っています。明らかに「富士」と表記された例の「富」、または「フジ」を示した際の「富◯」(例:『日本霊異記』に見られる「富岻」)について掲載したいと思います。

  • 「平城京二条大路木簡」(天平7年(735年))

これは「富士郡」の初見であり、駿河国のこの地が古来より「富士郡」と呼ばれていたことを明確にすると共に、富士郡の内側を示す大変重要な木簡である。

「駿河国富士郡古家郷」「富士郡久弐郷」「駿河国富士郡嶋田郷」とある。「冨」の「一」のない表記である。

  • 『日本霊異記』(成立は九世紀初めとされる)
『日本霊異記』、「興福寺本」より

『日本霊異記』の成立は九世紀初めとされる。富士山に関する記述としてはかなり古い部類である。また富士山における信仰面が伺える記録でもあるため、極めて重要な記録である。「冨」の「一」のない表記である(興福寺本で最古の写本とされる)。

  • 『今昔物語集』(平安時代と推定)

『今昔物語集』の「駿河国ノ富士ノ神主、地蔵ヲ帰依スル語第十一」にある、浅間大社を指す語である。「富士(の)宮」の初見かと思う。

「冨」の「一」のない表記である(鈴鹿本、原本の可能性アリ)。

  • 後醍醐天皇綸旨(正慶2年9月3日)


正慶2年(1333年)の書状である。宛には「富士大宮司館」とある。「冨」の「一」のない表記である。

  • 「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)

「富士河」とある。「冨」の「一」のない表記である。

  • 脇指 銘奉富士本宮源式部丞信国/一期一腰応永廿四年二月日(1425年)


「一期一腰 応永卅二年二月日」と彫られている部分があり、この刀が打たれたのは応永32年(1425)であると思われる。「冨」の「一」のない表記である(写真中の文字は便宜上「富」としている)。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月27日条

満済筆の「富士大宮司」である。「冨」の「一」のない表記である。

  • 『勝山記』(1521年の記述、筆写時期は不明、冨士御室浅間神社所蔵本)

「富士勢負玉フ」とある。武田信虎軍に富士氏が負けたことを記しているとされる。『勝山記』の「冨士御室浅間神社所蔵本」の筆写時期は不明。

  • 「今川義元判物」(天文8年1月18日、画像は宛の「井出駒若」の部分が切れている)

「井出文書」

「富士上野関」とある。富士上方の上野の関所のことである。

  • 『富士野往来』(天明4年(1784)、都留文科大学蔵

「冨」である。しかしこの題簽は後簽である可能性が高い。当写本中の表記は普通に"「冨」の「一」のない表記"である。『富士野往来』の最古本は文明18年(1486)の写本であるといい、こちらは18世紀の写本である。

  • 時代の比定

これら史料に鑑みるに、おそらく「冨」の文字はおおよその時代比定作業にも役立つと考えられる。『六所家総合調査報告書 古文書①』における菊池邦彦氏の『富士山大縁起』(東泉院所蔵)に関する解説で

「富」の文字に点があることなど、本史料は一見すると明治期かそれ以降に書写されたように見える

という一文があるが、まさに同意するところであり、1つの参考になってくるであろう。

  • まとめ

古来より富士の「富」は"「冨」の「一」のない文字"で表記されることが慣例であったと言う事ができる。また一説には「冨」は画数でいうと11画であり奇数となるが、陰陽の考え方で奇数は陽となるため縁起が良いとされる(参考:富士山の豆知識)。「富士」という表記は大きく時代が下ってからであろう。