2012年1月29日日曜日

富士山東泉院の成り立ち

まずこれを見てみて下さい。「富士市立博物館「菊川町の富士垢離」」より

平成11年度の『館報』で富士山信仰について若干の報告をする機会を得たことから、同様の信仰行事を探していたところ、小笠郡菊川町の下内田、段平尾地区という場所で「富士松明」とか「富士垢離」という行事があるという情報がはいりました。このように、周辺の環境は富士宮市村山興法寺に由来する富士山信仰に結びついている

このように富士信仰の広がりが認められますが、「周辺の環境は富士宮市村山興法寺に由来する富士山信仰に結びついている」というのは富士市も全く同様なのである。「大宮系」と「村山系」で言ったら、どちらかというと「村山系」の影響が強いように思える。もっとも、大宮と村山同士も関係を持っていたため明確には棲み分けできないものの、村山由来と思われるものが色濃く残る。

富士山南口案内絵図―村山修験者と南麓富士登山―」より

富士山の南麓から登山する場合、東海道あるいは甲州駿州往還などの主要街道から分岐し、富士山本宮浅間大社が鎮座する大宮(現富士宮市中央部)を経由して(あるいは経由せずに直接に)標高約500mの村山口を目指して富士山へ向かうことになる。

これはつまり「大宮・村山口登山道」のことを述べているのだが、ここに大きくヒントがある。そして続きます。以下も引用です。

この「駿河国富士山絵図」の意図したところは、変わらずに村山へ直接道者を誘致することであり、西からの道者を対象に製作されたと考えることができる。(中略)村山修験者が板行した大宮を経由しない道筋の絵図は、富士本宮浅間社と道者の確保を争っていたことが背景にあり、江戸時代以降衰微した村山修験者の生き残りがかかっていたといえよう。

このように、村山修験者が現在の富士市域まで頻繁に来ていたため、「直に富士信仰の文化の影響を受けている」ということが推測できるのである。しかし、その影響範囲はよく分かっていない。大宮と村山で守備範囲は異なっていた可能性もある。そして、村山の守備範囲として考えられる1つに、岩本などがあるのだろう。しかし、ここらへんの話はかなり時代が下ってからの話である。また時代が下ると、性質が異なっているようにもみれらる。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

戦国時代までは修験寺院であったが、江戸時代には寺領190石を与えられ、醍醐寺派の密教寺院として重きをなしてきた、しかし明治維新に際して廃寺となり、寺の什物や古文書類も散逸した。村山三坊と東泉院は、族縁関係にあったとも言われるが、少なくとも江戸時代には村山三坊が天台系の聖護院に属していたのに対し、東泉院は真言宗の醍醐寺末であり、組織的な交流を持っていたとは考えにくい。(中略)東泉院は東海道吉原宿に近接し、富士南麓の平地を支配していたが、富士山の登山口に直接関与していた形跡はない

このように元々は村山修験由来、またはそれに関係する施設として存在していたが、おそらく江戸時代以降形態が変化していったのであろう。ただ東泉院が登山口に直接関与していた形跡は確かに無いのである。また修験的側面もあまり見られない。須山口への関与がもしかしてあるかもしれないが、東泉院に富士山信仰という意味での拠点性は無かったと思われる。

しかし富士山信仰の影響はあったと思うので、起源的な部分から触れていきたいと思う。
最近は「富士山東泉院は村山(修験)由来である」と言えるようになってきている。資料などでの裏付け作業も進んできている。「六所家総合調査だより第7号」にはこのようにある。

東泉院は、江戸時代を通じて真言宗の密教寺院として富士市今泉の六所家が位置する場所に存在していた。以降しかし中世後期、今川氏が駿河国を勢力下におさめていた時代には、富士山表口を直轄する富士山興法寺(村山修験)の勢力に連なって活動する修験者であったと考えられる。

「今川氏が駿河国を勢力下におさめていた時代」とは、東泉院にとって起源にあたる時期です。それより遡ることは無いでしょう。そして、そもそも東泉院の初代住持(住職)も村山の人物であり、村山修験の衆徒ととれる(修験道本山派)。ですからもはや、「村山修験」と「富士市に土着している信仰の形態」とは外して考えることはできない。以下は資料として「六所家総合調査だより10」を参考としました。

六所家総合調査だより第10号

面白かったです。まず先ほどの初代住持「雪山」についてです。

富士山東泉院の歴代
第一代(修験道本山派東泉院)
【出身】駿河国村山(富士宮市)
【僧名】雪山
【事跡】今川義元より下方五社別当識を補任される。息子の大納言に東泉院跡職を譲る

永禄三年(1560年)に「富士山大縁起」 を編纂した人物でもある。また以下のようにもあります。

今川氏親の子息、義元の時代の東泉院住持は第一代の大納言(雪山)であるが、彼は富士山村山興法寺(現在の富士宮市村山浅間神社)の修験者である大鏡坊頼秀と系譜関係をもっている

葛山は富士郡にも勢力を伸ばしていました。実は大宮と村山それぞれに葛山勢力は関与しています。

同時代史料で東泉院が確認できる初見は四月十日付今川氏親書状(富知六所浅間神社文書)で、東泉坊が日吉宮の造営を請け負ったとあるもので、この東泉坊が東泉院を指すと思われる

やはり、東泉坊=東泉院と考えていいと思います(しかし、形態の大きな変化の可能性も大きい)。


そしてなぜ「六所家文書」かというと、第二十一代住持が明治維新後に服飾し「六所良邑」と改名し、六所家初代となったためです。「六所宮」とから取ったと思われます。しかしこれは明治維新後の話であって、それまで六所家の血脈が継がれてきたわけではありません。ですから、六所家というものを意識する必要性は特にないでしょう。

江戸時代、支配を認められた村々から東泉院は「御地頭様」などと呼ばれている。そこには領主としての一面を垣間見ることはできるが、宗教者としての立場を窺うことはできない。しかし、こうした宗教的権威が地域社会を支配するという体制自体は、中世以来脈々と続いてきた伝統の残存である。 

おそらく「村山修験に関わりもつ、富士山信仰としての側面」があまり残らなくなってしまったのだろう。確かに凋落していく村山の状況をみて、それに従うということは考えられにくい。それについては、このように分析がなされています(「東泉院と下方五社 - 富士市立博物館」)。

東泉院の五社別当職とは、大納言雪山による今川氏時代からの活動が由緒となって、以後江戸時代を通じて、明治時代初期の神仏分離によって廃寺となるまで継承されていきます。今川氏時代には、東泉院は河東における勧進活動を独占する権限を与えられていましたが、豊臣政権以降の近世の時代には、こうした権限は認められていません。その背景には、東泉院自体が、村山修験との関係を離れて、久能寺(静岡市)の管理のもとで真言宗の密教寺院として確立していくことや、近世統一権力(豊臣政権・徳川幕府)による勧進活動の制限などが影響していたと思われます

しかし、東泉院と村山の接点を追うことは非常に重要です。起源がそこにあるのですから。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 富士市立博物館「六所家総合調査だより第7号」
  3. 富士市立博物館「六所家総合調査だより第10号」 
  4. 富士市立博物館「東泉院と下方五社」

2012年1月18日水曜日

大宮道者坊

右に連なる屋敷群が「大宮道者坊」(『絹本著色富士曼荼羅図』より)※
大宮道者坊とは
浅間大社に隣接する、または境内に位置する富士山の道者向けの宿坊である。浅間神社の社人により管理されていたとされる。『大宮道者坊記聞』に「大宮道者坊ノ事、古へ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とあるため、16世紀前半には存在していた。
大宮道者坊は大宮の登山口の起点としての性格を伺わせるだけでなく、浅間神社自身が道者相手の諸事を行っていたことが明確にわかる非常に重要な存在である。神社またはそれら社人が宿坊を保持していたということを認識することは重要であり、古来の富士登山の形態を探る重要なポイントである。

個人的には、このように考えられるのではないかと思っている。


地域管理宿坊
大宮浅間神社の社人大宮道者坊
村山村山修験の衆徒・山伏村山三坊
吉田御師住宅御師
川口御師住宅御師

ですから、これは(各地域と比較する際の)「大宮の特徴」でもあるのです。また以下の判物が注目されている。


「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」では以下のように説明している(以下、要約)。
三女坊は辻之坊の支配を離れ、池西坊の支配を受けていたものと思われる。「大宮西坊屋敷」とは表口のもう1つの拠点である本宮の西にあった宿坊(道者坊)であったと考えたい。また本宮周辺の道者坊は本宮社人衆の他に、村山修験からの進出も想定される。
村山修験からの進出があったとして、それが介入という性質なのか提携的なものなのかという点がある。

富士山麓周辺の道者坊の形として、特徴的である。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

2012年1月10日火曜日

富士金山

「富士金山」は毛無山の鉱脈に属する金山の1つである。「富士金山」は古文書等で呼称される用語であり、今「麓金山」というのは「麓」という地名から読んでいるに過ぎない。

毛無山は静岡県と山梨県に跨る山であるが、駿河側の金山を「富士金山」と言い、甲斐国側の金山を「中山金山」と言います。そして互いに隣接する「中山金山・内山金山・茅小屋金山」の3つをまとめて「湯之奥金山」といいます。湯之奥金山と毛無山を挟んで反対側にあるのが富士金山というわけです。


富士金山は戦国時代から採掘が始まったとされ、支配者は「今川氏→武田氏→(後北条氏)→徳川氏」と移り変わっています。今川氏は「桶狭間の戦い」にて当主が死することで衰退し、それを見た武田氏が同盟を破棄し駿河に攻めこむことで戦国大名としての今川氏は滅びました。しかしその武田氏はやはり織田氏の手によって滅亡することとなったため、後北条氏が狙ってくることとなります。しかし程なくして徳川家康が駿河を支配したため、後北条氏ではなく家康が手にするのです。

  • 武田氏と金山
武田氏は金山の採掘によって得た収入を軍事力に当てていたとよく説明されます。しかし明確に支配していたかはよく分かっておりません。ですから富士金山についてもここでは「武田氏が富士金山を支配していたとは必ずしも言えないのかもしれない」とだけ記載しておきます。

「武田氏の金山支配をめぐって」には、以下のようにある。

武田氏の金山支配については既に多くの言及がなされているのにもかかわらず、武田氏の出した金山に関係する古文書の残存量が少ないこともあって、古文書を通しての実証的研究から、武田氏と金山に関係する確実な定説というべきものができあがっているわけではない

つまり、「金山の採掘によって得た収入を軍事力に当てていた」などといえる状況では実はないのである。また文書類の分析により、甲斐国領主「穴山氏」が管理していて武田氏は関わっていなかったと推察される金山もある。

富士金山についても言及されている。

これまで武田氏の金山と呼ばれてきたもののなかには、中山金山などのほかにも、そうでないものが含まれている可能性が大きい。また、駿河の富士金山についても穴山氏が手を延ばしていた可能性が高い

富士金山の支配は、間違いなく穴山氏が関与していました。これらについては「富士金山を取り巻く武田氏と後北条氏と富士大宮司」でも取り上げている。武田氏の大宮攻略の際、大宮城(富士城)の開城の手続きをしたのも穴山氏である。今川義元存命中の穴山氏は今川氏と関係が深かったが、その当時浅間大社に脇差を奉納するなど心理的な距離も近かった。何より、江尻領を保持していた穴山氏が富士金山を管理していたというのは、筋が通っている。これは、今後の研究次第である。しかし今川氏が富士金山を支配していた記録は存在するので、開削を始めたのが武田氏(及び甲斐勢)ということはまずあり得ないと言うことはできる

富士金山については「埋蔵金伝説もある!?麓(ふもと)の金山 2008年2月号(アウターネットワーク)」さんが分かりやすいかもしれません。
  • 参考文献 
  1. 笹本正治,「武田氏の金山支配をめぐって」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年
  2. 『静岡県史料 第2輯』P455-456, 静岡県,1933年 
  3. 『山川 詳説日本史図録』 
  4. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P418,名著出版(1974年版)

2012年1月1日日曜日

浅間大社と1779年の幕府の裁許

「推薦書原案」より抜粋します。
これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府による裁許によりこの八合目以上の支配権が認められた。
このように、1779年より浅間大社支配の土地として管理されてきました。


衆議は三奉行によって行われました。そもそもこの裁許というのは、「安永の争論」の決着なのです。争論自体は1972年に起こり、1799年に最終的な決断が幕府によりなされました。

しかしこの「大宮持たるへし」(大宮とは現在の富士山本宮浅間大社のこと)の「持つ」が土地そのものを指すのか否か、という議論がなされることがあります。これら懐疑的な見解として、古くでは「富士山頂問題と山の信仰」などで指摘されている。しかしこの内容に関しては学術的調査の欠如から由来する指摘であり、あまり参考にはならない。一方『富岳旅百景』の中で触れられていることなどは、傾聴すべきであるように思える。

しかしながら少なくとも浅間大社の神職らが管理に関わってきたのは間違いありません。ですから、はやり明治政府の判断はおかしかったと思えます(国有化のこと。仮に「管理」に留まっていたとしても譲渡されるべきに思える)。個人的には、冷静に考えていくと支配の可能性も除去できないように思える。疑問点はこのような感じです。

  • そもそも以前より富士大宮司らが管理してきた事実は揺るがない
  • 徳川忠長時代にも「大宮司支配の所」という文書が残る
  • 7年の歳月をかけて「管理」のみを結論とするとは考えにくい
  • 「支配」という点の議論も争論の中でなされている

古文書をみれは、浅間大社の神職らが管理していたという事実は揺るがない。幕府、または領主により「大宮司支配」として認識されてきた歴史もある。それらの状況の中で生じた争論において、単にまた同じ事実だけを言い渡すとは非常に考えにくい。また裁許状にはこのようにある。


裁許状の構成は、争論の過程から入り、最後に「今般衆議の上定趣ハ、…」と結論を言い渡している構成である。上の部分は裁許状の前半部分なので経緯の部分にあたるが、その中で「富士山八合目より支配と申証拠ハ無」とある。これは「富士山の八合目以上は浅間大社の支配であるという証拠はない」という趣旨であろうが、このような主張が争論の中であったことが分かる。そしてそれに対し、浅間大社の大宮司は反論している事実がある。

ここからもわかるように、「支配か否か」という争点も間違いなくあった。そのような中で、最終的にそれに触れずに裁許が終わるという流れは考えられにくい。争点としてあったのに、うやむやにして終えるというのは、7年という歳月をかけ、また三奉行が関わった裁許としては不自然である。

しかし「持つ」という表現が曖昧というのも頷ける。

  • 参考文献 
  1. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年 
  2. 大森義憲,「富士山頂問題と山の信仰(一)」,甲斐路第一号,1961年 
  3. 大森義憲,「富士山頂問題と山の信仰(二)」,甲斐路第二号,1961年